2014年4月30日水曜日

理解されたいということ

4月24日のCNNニュースで、「米女優ジョディ・フォスターさんが同性婚」というニュースが出ました。

 ↓詳しい記事はコチラ。 「米女優ジョディ・フォスターさんが同性婚
http://www.cnn.co.jp/showbiz/35047022.html

ジョディ・フォスター同性愛者であることは、ずいぶん前からよく言われていたことだし、去年は大々的にカミングアウトもしていたので、さほど驚きもしませんでした。
というか、ボクは勝手に彼女はスマートだし、そういう形式的なことは興味がないのかと勝手に思い込んでいました。

 一方で、ネームバリューのある有名人がこういうことをおおっぴらにすると、いろんな人に影響も与えるし、たくさんのセクシュアルマイノリティの方たちに勇気を与えるとも思いました。
 結局のところ、それぞれ個人の選択なので、自分が生きやすい選択をすればいいのだと思います。

 そんなことを思っている矢先、4月30日のハフィントンポストに「『日本では同性愛を話題にすらしない』LGBTの祭典『東京レインボープライド』参加者が訴え」という記事が出ました。
 ↓詳しい記事はコチラ。
  「日本では同性愛を話題にすらしない」LGBTの祭典「東京レインボープライド」参加者が訴え
http://www.huffingtonpost.jp/2014/04/27/tokyo-rainbow-pride_n_5222427.html

この訴えは「差別しない寛容さを持って」というのが主たる中味ですが、こういうことが話題に出るたびにいつもボクが思うことがあります。 

こういう運動をして、汎く社会に存在を知ってもらい、生きにくさを少しでも和らげて、いろんな選択ができるように選択肢を増やしていくのは、とてもいいことだと思う、ということです。
このことは、本当に心からそう思っているので、勇気ある活動家の方々にはものすごく感謝をします。 

でも、その一方で、ボク自身は今の社会でさほど生きづらさもなく、苦しんでいないせいもあって、今の世の中や、社会の制度や仕組みを受け入れているので、なんら変わることはありません。
カミングアウトする前の、ゲイである自分罪悪感を感じてたころに、もっと寛容な社会だったら、早くに今の生きやすさを手に入れられらたな、と思います。 

多くの方が、まだまだしんどい思いをしているし、当事者であるので、「マイノリティのパイオニア」とか名乗って、こういう記事を書いたりしているわけです。

ボクが望んでいるのは、もちろん寛容な社会であることでもあります。
でも、それより望んでいるのは、セクシュアルマイノリティ当事者の、内面です。
セクシュアルマイノリティに限らず、あらゆるマイノリティであるとも言えます。

今、セクシュアルマイノリティ5.2%存在すると言われています。
先日、左利きの人が全体の12%いると聞きました。
セクシュアルマイノリティの2倍以上いるとも言えますが、似たような数字であるとも思えます。
どちらもマイノリティであるとしたら、なぜ、セクシュアルマイノリティ左利きの方のように堂々としていられないのでしょうか。

かつては、左利きの方も矯正させられたものでした。
社会の理解の変化によって、ただの利き腕の違いのように捉えられていったように思います。 

確かに、性の問題は、ただそうであるというだけで話題になりにくいダブー視されやすいカテゴリーだとは思います。
でも、最近は多くのオネエの台頭によって、それも和らいできていて、相当生きやすいようになったとは思います。

今日の朝の情報番組で、ジョディ・フォスターが取り上げられ、メインMCの方が「ジョディ・フォスターの子どもはジョディ・フォスターのことを『パパ』と呼ぶんだろうか?」という実に陳腐な疑問を投げかけていました。
そういうのを聞いて、当事者以外は何も違和感を感じないのです。
そういう世の中なのです。

理解されて始めてきた、とか言いますが、ボクが「同性愛者」だとカミングアウトしているのに「性同一性障害の豆腐さんはどう思うの?」とか訊かれたりします。
豆腐さんは「男役なの?女役なの?」とみんな平気で訊いてきます。

ボクは、性自認は「」だし、「」であることになんの違和感も感じていませんし、「」として性対象が「」なので、どちらがどちらの役割をするとかはないのです。

みんな、興味本位に興味を持ちますが、理解しようとして興味をなかなか持ちません。 

ボクはそれが嫌で不快だと言っているのではないです。
みんな、当然そう思うだろうな、と思うので、普通に答えてますよ。
答えるのが面倒だとも思っていません。

でも、確実に、カミングアウトする前のボクは、そういうのが嫌でたまりませんでした。
だから、多くのセクシュアルマイノリティの方はまだまだそう思うだろうから、社会に知識を増やしてもらいたいな、と思います。

では、なぜ、ボクはそれが平気になったのでしょうか。 

こういうことを多く取り上げてくれている番組などでも、当事者や周りが「まず理解をして欲しい」ということを言います。

ボク自身、「もっとボクらのことを分かってよ」と言わんばかりになっていた時期があります。
そんなに分かってもらわないと何もできないの?」とも何度も言われました。 

先日、このブログの「愛情というコップ」の記事で、「ボクは、ボクの望む幸せに見合った『愛情』をくれなかった親に対して、居心地の悪さを感じました。家はボクのいていい場所ではないと、ほかに居場所を求めました。親の期待に添えない自分を責め、ときにはそんな親に対して憎しみや怒りを憶えたりしていました」と書きました。
ボクの親は自分の子どもに「結婚して子どもを産んで家庭を持つ」ことが子どもの「幸せのカタチ」だと思い込んでいました。
しかし、それが同性愛者のボクには叶いませんでした。
ボクの求める「幸せのカタチ」は違うところにありました。
子どもの「幸せのカタチ」についてそういう思い込みを持った親に育てられると、子どもはどうなるでしょう。
ひとつの「幸せのカタチ」をそれしかないように刷り込まれて育てられると、そうでない子どもは「自分は幸せになれないダメな人間だと思うようになります。
しかもそのうえに、「親の期待に添えないダメな人間だと思うし、ほかのひとのように普通に「幸せな家庭を作れないダメな人間だと思うようになります。
その日常の繰り返しや積み重ねが、自己肯定感を失い、自己否定感でいっぱいになっていくわけです。 

でも、ただ利き腕が違う子どものように、ただ恋愛対象として好きになる性別が多くのひとと違うだけと親に認識があれば、その一方的な「幸せのカタチ」の押しつけはしなくなるんじゃないでしょうか。 

ボクは、そのひとと違う部分を隠すようにして、そうじゃない普通に出来る自分をアピールして、「ここまで長けている部分があるなら、そのハンデは見逃してくれるだろう」という無意識の思い込みで、反発で何でも頑張ってきたわけです。

いちばん肝心なコンプレックスを自他ともにダメ出ししているんだから、それはいつまでたっても生き苦しいに決まっています。

ひとを好きになるのに性別など関係ない」と思えるようになるのには50年がかかったわけです。
なんとなく、そう思っていたけど、きちんと腑に落ちて、同性愛者であってもなんら恥ずかしいことなどなく、性の多様性のひとつだときちんと思えるまでは、50年かかったわけです。

マイノリティであったっていいじゃん」と簡単には当事者は思えないのです。

だから理解を求めるのです。
寛容を求めるのです。

何度も言いますが、今は相当寛容な社会です。
でも、欲を言うなら、「豆腐さんはそのままでいいけど、やっぱ50歳で独身だと、どこか欠陥があるよね」ってみんなが思ってしまう世の中なのです、という感じはなんとかしたいところです。

そうして、多くのひとが、小さな表現ひとつに傷つき、「マイノリティだっていいじゃん」なんてとても思えないわけです。

ハンデと思わなくていいことを、ハンデと思わせてしまう社会や思い込みに憤りを感じます。 

でも、そうなってしまったら、当事者自身が、まず、自分に「ハンデ」であり「ダメ」だと思っている部分を、「ダメ」じゃなくする必要があります。

周りが認めてくれたって、自分自身が「ダメ」だと思っていたら、「幸せ」にはたどり着かないと思います。

不公平さ・不条理さ・理不尽さは改善されたほうがいいと思います。 でも、その不公平さ・不条理さ・理不尽さから、権利取得に行きがちなんだと思います。
だから、こういう記事や話題はものすごくよくわかります。 

ボクは、権利を主張する前に、自分の中味を整え、自己肯定感を上げる作業をしながら、今出来ると思える限りの最高の選択をしながら、生きていくほうが「幸せ」を感じられると思っています。

社会の寛容さは必要です。
それ以上に、自分のダメだと思い込んでいる部分を受け入れることが重要だと思います。 

このところ、ずっと「共有」が大事だとも言ってきました。
相互理解」と「受容」と「共感」が「共有」に繋がります。

小さいころから、親にいっぱい共有してもらってきた子どもは自己肯定感の高い子どもに育ちます。 

だから、ちょっとくらいひとと違っていても、小さいころから、親や大人や社会の決めつけを押し付けず育ててくれれば、自己否定感でいっぱいの子どもにはなりません。

そして、それは、どんなに年を取ってからでも取り返しがつくのです。
ボクのように。
今からでも、自分自身自己肯定感を高め、汎く共有感を得られれば、充分幸せになるのです。

そういうことがクリアされていれば、「カミングアウト」など、してもしなくてもどっちでもいいのです。

ボクのことを「面倒くさいヤツ」と思う方は、ぜひ、「あなた自身の中にある本当は大事な気持ちを面倒くさいからとおざなりにして見ないフリをしている部分の投影(反映)」だと思ってください。

みなさん、自分のココロと向き合って欲しいと心から願います。

2014年4月27日日曜日

じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」5月度【セルフイメージチェンジルーム】のご案内

昨日、じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」4月度【マイノリティスタディルーム】のご報告をしたばかりですが、今日は次のご案内です。

しろにじカーサ ロゴ

毎月第2日曜日は【セルフイメージシェンジ ルーム】です。

こちらでは、深く自分を理解し、よりよい行動の選択ができるように、コーチング・カウンセリングなどの手法を使って、参加者のみなさんにディスカッションやワークをしていただきます。

本当の「じぶん」、話してみませんか?

じぶん発見プロジェクト「

【セルフイメージチェンジ ルーム】

日時 : 5月11日(日)13:15~16:15
参加費 : 3,000円
参加定員 : 20名
場所 : ナディアパーク(青少年文化センター) 8F ビデオルーム
    名古屋市中区栄3-18-1 ナディアパーク内
    地下鉄名城線・東山線「栄駅」より徒歩約7分, 名城線「矢場町駅」6番出口より徒歩約5分


ナディアパーク地図

どなたでもご参加いただけます。
興味のある方はぜひお問い合わせください。

今回は「視点を変える」というテーマで開催します。

しろにじカーサ受講生募集用チラシ表
しろにじカーサ受講生募集用チラシ裏

お問い合わせ・お申し込み先

「しろにじカーサ」代表 豆腐(きまた宗則)

  Tel : 090(9262)8782
  携帯mail : torff_sessionroom@ezweb.ne.jp

活動ブログ「豆腐の Activity Life」、Facebook、mixiメッセージ、twitter、こくちーずなどからお申し込みください。
定員になり次第終了させていただきますのでご了承ください。
お受付させていただいた方には24時間以内にご連絡させていただきますので、メールアドレスを添えてお申し込みください。

主催:「しろにじカーサ」代表 豆腐(きまた宗則)


たくさんの参加表明お待ちしております。

じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」4月度【マイノリティスタディルーム】のご報告

今日は、4月の入って初めての「じぶん発見プロジェクト『しろにじカーサ』【マイノリティスタディルーム】」でした。

じぶん発見プロジェクト『しろにじカーサ』」自体は2週間前に開催しましたが、「セクシュアリティ勉強会」を終わらせて、同じような動画を見てディスカッションしてもらう形式の、ある種続きのようなワークショップは初めてで、当事者じゃないマイノリティを題材にするのは初めてだったので、少しわくわく感と不安感が同居するような緊張感を楽しみました。

4月MSR1

以下、参加されたみなさんの感想です。

【R.I.さん】いろいろ考えることが多く、なかなか感想が出てきませんが、友人が少ないことを悩まないようにしたいですね。
【田村さん】マイノリティスタディって何をするのって思っていたから、とても面白かったです。
【かすみさん】むずかしい。「弱者」って自分は意識あまりないけど。


4月MSR3

今回は、発達障害の例を動画で見てもらいながら、「友達ってなに?」というテーマでディスカッションしました。

動画の中心人物は10歳のADHD(多動性障害)高機能発達障害の男の子で、家族の理解を得ながら、「友達」をたくさん欲しいと思っている「光くん」という名前の子でした。
まず、参加者のみなさんの持っている「友達」の概念や定義を話してもらって、光くんの欲しい「友達」とどう違うかを話し合ってもらいました。
光くん理解者を求めるときに、家族や先生以外では、その理解者が「友達」でした。
理解者がたくさん欲しいし、生きていくのに助けが必要だったので、「友達」はたくさん必要でした。
でも、たくさんはなかなかできないし、なかなか理解されないから、「友達」を作るために、「言いたいことを我慢する」ことが必要でした。

参加者のみなさんからは、「友達の数は関係ない」「何でも話し合えるひとが友達」というフレームがありました。

どうして「友達」の概念や定義が光くんと違うのでしょう?
みなさんは光くんの「友達」になれそうですか?
なれたとしたら、どんな配慮をしますか?
どんな配慮をしないようにしますか?

などをディスカッションしてもらいました。
セクシュアリティ勉強会」のときと同じように、みなさんとまったく違うひとの立場になってみたり、周りにそういうひとがいたらどうするか、を当てはめてもらいながら、またほかの参加者の方の意見を聞きながら、ひととの違いを知り、自分の理解を深め、相手の理解も深め、本当の自分を伝えながら、社会の中でどういう行動をしていくかの応用をしていけたらな、と思いました。
ひとと違うことは「ダメ」なことではなく、ひとつの「特徴」であり、それがこれまで伝えてきた「個性」なんだとお話しました。
相手を「弱者」として捉えるのではなく、「関心を持つ姿勢」でいると「理解者」になれるのではないでしょうか、とも伝えさせていただきました。
弱者」として捉えることは、自分の弱い部分を受け入れてないのではないでしょうかということもお話しました。

少し、気合を入れすぎたかもしれません。
ちょっとメッセージが入りすぎて喋り過ぎたかもしれません。
みなさんの、もっと話したい「本当のじぶん」には、ちょっとずれていたかもしれません。
ちょっと参加者のみなさんを疲れさせたかもしれません。
ボクも少し疲れました(笑)。


4月MSR2
4月MSR4

もう少し、スローなテンポでゆっくりメッセージを伝えたほうがいいのかもしれませんが、このプロジェクトで伝えていきたいことはとても明確化しつつあるように感じました。
ボク自身はすごく満足していますが、もっともっと講師力を上げる必要も感じました。

4月MSR5

参加してくださったみなさん、ありがとうございました。

2014年4月25日金曜日

愛情というコップ

今日は「愛情」のお話です。

ボクのところにセッションを申し込んでいただいてるクライアントさんは、ほとんどが、セクシュアルマイノリティの方か、メンタルの病気の方か、なにかの障がいを持たれている方か、過去に大きなトラウマを持っている方か、人間関係がうまくいっていない方のいずれかです。
誰にも言えなくて、これからも言わずに墓場まで持っていこうと思っていることを、なんか豆腐さんなら言えそうな気がするとか、豆腐さんにだけ言いたくなったという方もいらっしゃいます。
また、女性のクライアントさんの場合は、ボクが同性愛者ということで、男性独特の本能的なものを感じず、女性の気持ちも汲みやすいという方もいらっしゃいます。

そうして、セッションさせてもらっていると、大体の方がご両親との関係から出来上がってしまった思い込みによって苦しくなっちゃっている方ばかりのように思います。
というか、問題となっている出来事はまったく違うけれど、最終的にご両親への感情にたどり着きます。
その感情に無意識に蓋をしてしまっている方が多いと思います。

最終的には、そういう感情を持ってしまった自分の環境を受け入れ、自分の本当の感情に気づき、自分を赦し、親を赦すことによって、自分を取り戻していってすべて癒されることがほとんどだったりします。

ボクの場合は、長男として苗字を引き継ぎ木股家の墓を守るという形が親の望みでした。
それは、両親と子どもがいる家庭が幸せに決まっているという親の観念からくるものだと思いますが、残念ながらボクは同性愛者だったので、その形では幸せになれませんでした。

親に対する怒りや、親から受けた虐待などによって、多くの人が同じようなことになってしまいます。

親の望む子どもへの期待が、子どもの幸せの価値観と合致していれば、その期待はおおきな後押しになるでしょう。
小さなころから、親の英才教育を受け、それが子どものやりたいことと合致していると、素晴らしいプロフェッショナルとして才能を開花することになります。
でも、親から無理矢理にさせられていた習いごとは、大して実を結びませんよね。

それを経験してしまった子どもは、親の歳になってようやく親の立場を理解できて、自分も子どもに無理な期待をかけてしまっていることに気づいたりします。
自分が、そういう思いを子どものころにしていたのに、自分の子どもには自分の価値観を押し付けてしまいます。
自分の親と同じことを、自分もしてしまったりします。

ボクは、ボクの望む幸せに見合った「愛情」をくれなかった親に対して、居心地の悪さを感じました。
家はボクのいていい場所ではないと、ほかに居場所を求めました。
親の期待に添えない自分を責め、ときにはそんな親に対して憎しみや怒りを憶えたりしていました。

でも、ほとんどの親は、子どもを愛しています。
子どもに「愛情」を注がない親などほとんどいないのです。

自分の求める「愛情」と違う形の「愛情」をくれていたはずです。
自分の求める「愛情」と形が違うと「愛情」をくれていなかったことにしてしまうんですよね。

心の中の「愛情」という名のコップの中身はからっぽだと思い込んでしまっています。
でも、本当は、自分の心の中にある別の「愛情」のコップが見えていないだけなんですよね。
いつも「愛情」で満たされていたいコップの横に別のコップがあって、そのコップは「愛情」が溢れかえっているのに、見えていないから気づかないだけなんです。
愛情」を満たしたいコップしか見ていないのです。

愛情」をもらえなかったと思っている人は、残念ながら小さいころからの共有感があまりなく、自己肯定感の低いひとになっていきます。
自己肯定感の低い、自尊心の育っていない子どもは、自信がなかなか持てず、人との関係性もうまく築けず、目標を持ったり達成したりすることが困難になっていくんですね。

でも、今からでも遅くはないのです。
周りの「愛情」に溢れているコップに気づけば、自分で欲しいと思っていたコップに「愛情」を注ぎ直せばいいんです。

形は関係ないんです。
別の「愛情」に気づくだけなんですよね。

暴力」や「虐待」という形でしか、「愛情」を表現できないひとも残念ながらいます。
憎しみ」や「嫉妬」という形でしか、「愛情」を表現できないひともいます。
もちろん、傷を受けないように自分を守ることは必要です。
でも、もし、過去に受けた傷がすべて「愛情」から来ているものだと知るだけで、ずいぶん気持ちは楽になっていかないでしょうか。

本当に誰からも愛されていない人などいないと思います。
みんな、自分の欲しい「愛情」じゃなかっただけです。

カウンセラーやコーチは、クライエントさんが、自分で自分のいちばん欲しいコップに「愛情」を注ぎ直すお手伝いをしているのかもしれません。

そうして「愛情」に気づき、愛されていたことに気づくだけで、自己肯定感は上がり、自信がついていくんです。

心のコップが「愛情」で満たせれていけば、ひとにも「愛情」が注げるようになります。

いろいろうまくいっていない方、心のコップは「愛情」で満たされていますか?
自分が嫌いで嫌いで仕方ない方、心のコップは「愛情」で満たされていますか?
自分が欲しいコップだけを見ようとしていませんか?

それが、ひとを好きになれなかったり、自分を好きになれなかったりする理由かもしれませんよ。

2014年4月19日土曜日

相手を理解するということ

今日は、「第19回 マインドスペース 夢カフェ」でした。

ずっと、「自己理解」についてさせてもらっていましたが、初めてシリーズ「相手理解を深める」を講義させていただきました。
参加された方は初対面で、先に「自己理解」の方を話したくなっちゃったけど、予定通り「相手理解」についてお話させていただきました。

自己理解」をするということは、自分の内面に深く入っていくことなので、1回目でもそれなりに効果は得られるように思うのですが、「相手理解」は相手が要ることなので、少し難しさを感じました。

何度もお伝えしているとおり、ボクは「自己理解」「相手理解」「自己開示」はすべて同時進行していかないと深まっていかにと思っているので、ここを丁寧にしていきたいと考えていました。

今日は、そのうち「話を聞き受け止める」というテーマで、「傾聴」の仕方について、トーマス・ゴードン博士の「親業」の話を使って、「コミュニケーションを阻む対応」について話しながら、「受容」と「共感」の大切さと、仕方について、かなり丁寧にお話させていただきました。

第19回マインドスペース夢カフェ

そのあと、主催のあいくんとファミレスで反省会を長い時間かけてしました。

今日の講義の中身は、学んだカウンセリングの視点から、日常のコミュニケーションに活かせる部分を抽出し、そのうち、今日はとにかくひたすら相手の話を聴きまくること、なんのジャッジもなく、何の言葉も発せず、ただうなづちとあいづちだけで相手を理解しながら関係性を深めていくことができることを、実践を交えながら講義してみました。

話しながら、自分でもその大切さを再認識しました。
相手に「意見」したり「提案」したり「激励」したり「分析」を入れたりすることも、まずただ「受容」し「共感」をした後でないと、相手には「批判」や「非難」が伝わるということを話しました。

こういうことって、カウンセラーでなくてもとても大切で、みんなに実践して欲しいと思いました。

そして、今、自分の感情にも「受容」と「共感」をしてあげると、「相手理解」をしながら「自己理解」にもつながるということを実感していたりします。

普段、われわれはいかに相手を「否定」し「非難」しながら、ひとや自分をジャッジしているか、もっというと、いかに無責任に傲慢にひとや自分を捌いているか、講義しながら思い知った感じがします。

帰り道、あいくんと、この「マインドスペース 夢カフェ」でいかに素敵にそういうことを伝えられるか議論し、今後に活かしていきたいかを確認し合った気がします。

こういうことを講義させていただけることに、改めて幸せを感じました。

今日、参加してくださったみなさん、ありがとうございました。

ボクを講師に選んでくれたあいくんにも感謝します。

そうしてこういう環境を与えてくれている環境にも感謝しています。

2014年4月18日金曜日

「第三の性」ってなに?

4月2日にオーストラリアの最高裁で「中立的な性別」を認める旨のニュースがありました。

↓ロイター記事はこちら。
「男でも女でもない」オーストラリアで"中立的な性別"を認める 最高裁が判決

そのとき、ボクは、「中立的な性別」って表現に違和感を感じました。
しかし、記事を読むと「男性でも女性でもない不特定な性別」という表現がしてあったので、それならトランスジェンダートランスセクシュアルの人たちにとって楽な生き方になるのなら、と思い支持をしました。
でも、バイセクシュアル非性愛者無性愛者は「中立な性」ではないように思ったし、この判決は何を意味するのだろうと少し疑問が残りました。

そんな矢先、4月15日にインドで「第三の性(サードジェンダー)」を認める最高さん判決が出たと新しいニュースが飛び込んできました。

↓Huffington Post 記事はこちら。
インド最高裁、「第三の性」を認める

インドでは、もともと男性でも女性でもない人をヒジュラー(ヒジュラ、ヒジュダともいう)と呼び、ヒンドゥー教の歴史にも登場し、ほかの国と少し違う歴史的背景があるかも知れません。

こういうセクシュアルマイノリティに寛容な国になるといいな、とは思いました。

しかし、何か釈然としないものが残りました。

第三の性」が出来ると、日本のように性同一性障害性別変更した人たちはどんな扱いになるのだろう?

ボクは性同一性障害ではなく、同性愛者だから、自分の性自認に違和感はないので、実質的になんの変わりもありません。
先に述べたバイセクシュアル非性愛者無性愛者は、自分の性自認とは違うところに違和感があるので、ここに当てはまらないと思います。

もともと、「第三の性」が取り沙汰されたのは、トランスジェンダートランスセクシュアルのためではなく、半陰陽の人たちや性別が判断できない人のために出てきた考え方だと思います。
そこに、トランスジェンダートランスセクシュアルの問題を付け加えていくと、ややこしくなります。

ふと思ったのは、「第三の性」というものが認められるとそれに当てはまらない人は「第四の性」というものが出てきたり、トランスの状態の人は「ちょっと男性よりの第三の性」とか「ちょっと女性よりの第三の性」とか出てこないんだろうか?
男性」と「第三の性」や「女性」と「第三の性」を行ったり来たりする人はいないんだろうか?

選択がふたつしかないから二極化が進むのであり、真反対であったり、裏表であったりするのだと思います。

日本ではこういう「第三の性」の議論はあまり表立っていないと思いますが、ここまで世界の各国が認識を変えてくれば、グローバルに見る必要が出てくると思います。
よく調べていませんが、出生時に遺伝子検査なんてしてないと思うんで、出生時に一旦は表面的に見える男性器の有無で「」か「」かが戸籍には記載されてしまうようになっていると思います。

日本には戸籍制度というものがあり、「男性」「女性」という括りがあるから、「父親」「母親」という概念が存在します。
第三の性」が認められると、それは親となったとき「父親」になるの?「母親」になるの?「第三の親」とかいうの?
トイレはどうするの?
公衆浴場はどうするの?
いろんな混乱が起こると思います。
いろんな側面から制度や環境を見直さないといけません。
そういう準備が整わないうちに、権利だけの視点から、それを良しとして良いのでしょうか?

オーストラリアやインドがそこまで議論されているかどうかはわかりませんが、単に選択肢として増えたから望ましいと簡単に決めつけていいのでしょうか?
オランダやフランスのような同性愛に寛容な国についても同じようなことを感じます。
混乱する人の方が多くないでしょうか?

マイノリティが生きやすいに越したことはありません。
否定しているわけではないのです。
非難もしません。
喜ばしいことだと思います。

同性間にも配偶者として適応されたほうがいいと思うし、不公平は少しでも少ないほうがいいと思います。

しかし、ボクが思うのは、社会的認知倫理的認知が広がらない限り、セクシュアルマイノリティの生きにくさはあまり変わらないと思うのです。
法の力を借り、法から変えて行って、社会の認知が広がるのであれば構いません。
今、必要なのは、そこにどういう苦しみがあり、そこの認識のなさがそういう社会的偏見を生み、セクシュアルマイノリティが生きにくくなっているか、の方ではないかと思うのです。

たとえば、性同一性障害の方の性適合手術だってまだまだ高額だし、手続きも大変です。
性別変更の手続きだってとても理に叶っていると思えません。
医学の分野も同時に進行していく必要があると思います。

こと、性同一性障害においては、法律医学社会的認知がバランスよく進まないと、うまく機能していきません。

そういうことを危惧しないでいられないのはボクだけでしょうか。

それをみんなが知らないふりでいいんでしょうか。

ここは後回しでいいのでしょうか。

そんなことを思った今日でした。

2014年4月17日木曜日

自分に共感する

昨日、ある方と話していて、面白いことが起こりました。

ボクの話している内容に感動して、その方が感極まっていました。
そして、それを見たボクが込み上げてきました。

ボクは、自分のハナシを冷静にしゃべっているのに、その内容について、人の感情を通して込み上がってきたんです。
なんだか、三面鏡を見ているようでした。

それだけ、自分の感情には、素直に寄り添えていないんですよね、きっと。
冷静でいなければいけない、ハナシをするだけでこんな取り乱してはいけない、それはみっともない、そういう無意識があるんだと思います。

自分には向き合えている自信もあって、ちゃんとしていると思っているんだけど、そこに出てくる不安のようなものには、寄り添いきれていないと思いました。
もしかしたら、もうそんなことは大丈夫と、自分を肯定できているから、そう思うのかもしれませんが。

人の感極まっている様子を見ながら、自分の不安に気づいて寄り添っている感じって、いかに自分のことは見られていないのか、ってことですよね。
仕事として、また、日常として、人の気持ちには寄り添えるのに、自分のことは見えないもんですよね。

そうは言っても、毎日毎日自分の内面と向き合っているから、相当楽にはなってきています。
わけのわからない不安のようなものは今のボクにはほとんどありません。

ここで強く思ったのが、やはり「共感」の大切さです。

人はそもそも理解をされたい生き物なんですよね。
理解をされたいから話をするんだと思います。
理解をしたいから話を聞くんだと思います。

共感」がないと「自尊心」が育たないということを前にこのブログで書きました。

そこで書いたのは、「人に共感される」ことの大切さと、「人に共感する」ことの大切さだったと思います。

でも、今回気づいたのは、「自分に共感する」ということの大切さです。

ここ最近、「自分にダメ出し」をすることがネガティヴの連鎖に繋がると書き続けています。
何か嫌な出来事があったとき、何か受け止められないことがあったとき、「そんな自分ってダメだ」って思うことがネガティヴスパイラルの始まりだと書き続けています。

その連鎖を止めることはどうしたらできるのか、と多くの方から質問を受けます。
いつもそのとき、自分にダメ出しをせずに、その状態をただ受け止めてください、と言っています。
でも、長いあいだ積み重ねてきた自分へのダメ出しは、そう簡単に変えられるものではありません。

そんなとき、ボクは、「そう思っちゃった自分って仕方ないよね」「そういう選択しかできなかったよね」と自分に寄り添っています。
育ってきた環境、時代背景、教育、親からの刷り込み、嫌な体験の数々で、ボクはそう思うようになってしまっていたんだ、それはそう思って仕方なかった、と思うようにしたんです。

自分の無意識の苦しみや不安に、せめて自分くらいは気づいてあげたいと思ったんです。

共感」がないと「自尊心」が高まらない、でも、「共感してくれる人」がなかなかいない、というときに、「共感する人がいなくても大丈夫」と自分の気持ちを押し殺すと、それは鬱積していきます。

いつもボクは、自分が最大の自分の理解者になってあげてください、それが自分を大切にしているということです、といいます。
自分の本心を無視することは自分を虐待していることです、といいます。

それは、とても難しいことですが、自分の不安や苦しみに、自分が「共感」してあげればいいのです。
自分の感じている感情だから、「共感」できないわけがないですよね。

カウンセリングを学ぶと「受容」「共感」「自己一致」が大事だと教えられます。
このなかで、いちばん重要なのが「自己一致」だと言われます。
いちばん難しいのも「自己一致」だと言われます。

カウンセリングで言う「自己一致」はまた機会があればここに書きますが、もし、同業者の方で、「受容」「共感」は出来るけど、「自己一致」が難しいという方は、自分に「共感」してあげてください。
結構「自己一致」が楽になると思います。

昨日、三面鏡の中にいるような経験をしてみて、ボクはもっともっと自分に「共感」してあげたい、そう深く強く思いました。

「共感力」という本が書けそうです(笑)。

2014年4月14日月曜日

じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」4月度【マイノリティスタディルーム】のご案内

昨日開催した、じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」4月度【セルフイメージチェンジルーム】のご報告をしたばかりですが、今日は次回の告知です。

毎月第4土曜日は【マイノリティスタディ ルーム】です。

こちらのルームでは、ほかの人とどこか違う、違和感に感じているところを個性に変えていくアプローチで、よりよい行動の選択ができるように、マイノリティの題材を使って、参加者のみなさんにディスカッションを重ねていただきます。

本当の「じぶん」、話してみませんか?
じぶん発見プロジェクト「

【マイノリティスタディ ルーム】

日時 : 4月26日(土)13:15~16:15
参加費 : 3,000円
参加定員 : 20名
場所 : 名古屋市東スポーツセンター 2F 第1会議室
   名古屋市東区大幸南1-1-10(地下鉄名城線 ナゴヤドーム前矢田1番出口徒歩約1分, ゆとりーとライン(ガイドウェイバス)ナゴヤドーム前矢田下車徒歩約1分)



東スポーツセンター地図

どなたでもご参加いただけます。
興味のある方はぜひお問い合わせください。

今回は「友達ってなに?」というテーマで開催します。



しろにじカーサチラシ表

しろにじカーサチラシ裏

お問い合わせ・お申し込み先

「しろにじカーサ」代表 豆腐(きまた宗則)

  Tel : 090(9262)8782
  携帯mail : torff_sessionroom@ezweb.ne.jp

活動ブログ「
豆腐の Activity Life 」からお申し込みください。
Facebook、mixiメッセージ、twitter、amebaメッセージ、こくちーずなどからもお申し込み可能です。
定員になり次第終了させていただきますのでご了承ください。
お受付させていただいた方には24時間以内にご連絡させていただきますので、メールアドレスを添えてお申し込みください。

主催:「しろにじカーサ」代表 豆腐(きまた宗則)


たくさんの参加表明お待ちしております。 

2014年4月13日日曜日

じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」4月度【セルフイメージチェンジルーム】のご報告

今日は、じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」の第1回目でした。

本当の「じぶん」、話してみませんか? というキャッチコピーで始めたこのプロジェクト、毎月第2日曜日は【セルフイメージチェンジルーム】です。

こちらのルームでは、深く自分を理解し、よりよい行動の選択ができるように、コーチング・カウンセリングなどの手法を使って、参加者のみなさんにディスカッションやワークをしていただきます。

4月SCR1

セクマイ関係なく、一般の方向けにするワークショップは「マインドスペース 夢カフェ」以外では初めてでした。
マインドスペース 夢カフェ」はボクは講師として参加しているので、自分の主催ではセクマイ関係ないものでは初めてのワークショップだったし、3時間というのも「セクシュアリティ勉強会」でしか、したことがないので、ちょっと珍しく緊張がありました。
と同時にわくわく感どきどき感もありました。

この準備の中にありえない準備不足もあり、それなりに反省点も多かったんですが、手応えとやりきった感じはものすごくありました。

4月SCR2

今回は5名の方が参加されました。
以下、参加されたみなさんの感想です。

【R.I.さん】視野が少し広がり、精神的にすっきりした感じがしています。この感覚を大事にして、更に学んでいきたいです。
【Nikkohさん】期待していた通り良質な内容で、たくさんの刺激を受けました。思い込みは完全に無くならないし、完全に無くす必要もないと思いますが、いかに多くの自分も思いもよらなかった思い込みを持っているのかを知ることは、生きやすさへとつながっていくと感じました。
【たんたさん】その人がどんな思い込みを持っているかを、物語の人物に意識を向けることで考えさせられました。体の状態に対して、その状態を受け入れる原因をさぐっていくことをやってみようと思いました。
【さっちゃん】思い込みを知るというテーマで、自分だけでなく相手の思い込みも話し合えてよかったです。思い込みは人の「普通」で、それが人それぞれに違っていることが摩擦を生むこともあるんだけど、理解したいという気持ちを持って関わることでお互いの世界が広がると思いました。



この、じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」は、自分をより深く知り、関係性を構築したい相手もよく知り、それぞれ違う部分を相互に開示してクリアにしながら、相手を傷つけずに相手の開示も受け止めて、コミュニケーションを良くする、さらにそのうえで、今の社会のなかでより良い行動の選択をしながら、自分らしい生き方を発見していくためのプロジェクトであり、参加されたみなさんが生き生きと自分らしい生き方をしていくことを目的としています。
【セルフイメージチェンジルーム】では、その理論を説明したり、ワークやディスカッションをして、自分らしい生き方を発見していくカリキュラムになっています。
【マイノリティスタディルーム】では、日常の生活ではあまりないマイノリティの事例に自分や環境を当てはめてもらうことで、具体的な応用の仕方をシミュレーションして練習していただくようなカリキュラムになっています。
これぞれのルーム12回、計24回を通して、参加者のみなさんが、自分らしい生き生きとした人生を送れるようになっている状態をイメージしながら講師をしていきます。



今回はその【セルフイメージチェンジルーム】の第1回目ということで、まず、自分をより知ってもらうために、みなさんそれぞれに持っている「思い込み」の部分に焦点を当てました。
それを「メタモデル」の手法を使いながら説明をして、さらにひとつの物語を使って、深く自分の中に落とし込めるような工夫をしてみました。
今は、【セルフイメージチェンジルーム】のすべての内容のうちの 1/12 を出し切ったような気分でいます。

あるひとつの違和感を感じた出来事は、不必要な「思い込み」の連鎖によって、死にたくなるほどのネガティヴスパイラルに陥ってしまうこともあるし、可能性を信じるような考え方によってこのうえない幸せを感じることもできる、ということを伝えさせてもらいました。
その「思い込み」は過去の経験や体験で出来上がってしまったものかもしれないし、親の育て方によって出来上がってしまったものかもしれないし、社会の不条理な押しつけで刷り込まれてしまったものかもしれません。
それをひとつひとつ紐解いていきたいな、と思いました。

4月SCR3

参加者のみなさんは、それをどう感じてくれたでしょうか。
今回参加されなかった方がこれを読んで、参加してみたくなるのでしょうか。

主催者のボクも、支えてくれているクルーのみんなも、正直なところ、手探りで始めてみた感じが否めません。

でもきっとみんな、参加する意味を感じてくれたはず、と思っています。

次は今月26日土曜日の【マイノリティスタディルーム】です。
明日、ここで告知をする予定です。

興味のある方は問い合わてくださいね。

今回、記念すべき第1回に参加してくださったみなさん、本当にありがとうございました。

2014年4月12日土曜日

NPO法人コアカウンセリング支援協会認定コアインストラクター

カウンセラーの認定をいただいたコアカウンセリング支援協会で、昨年10月から学んでいた養成講座が先月で修了し、4月6日に試験を受けてきました。
今週水曜日に合格通知をいただき、今日認定書授与式と祝賀会に行ってきました。

コアインストラクター認定書

理事長の宮崎先生と記念に写真を撮ってもらいました。

コアインストラクター認定書授与式

この資格を取得すると、カール・ロジャーズの来談者中心療法を用いたカウセリング理論と技術を学ぶ「コアカウンセリング講座」を開講することができます。

まだ少し整える箇所が必要ですが、がんばれば年内にも開講できるかもしれません。

実は、この半年、明日から始まる「じぶん発見プロジェクト『しろにじカーサ』」の準備と並行して、この口座に取り組んできたんですが、実は相当大変でした。

理解することと、それを講師するというのは大違いで、しかも自分の哲学で講師するのではなく、カール・ロジャーズの理論をわかりやすく説明できないといけません。
実は、それだけではなくて、その講座で、「豆腐さんらしく」講師をするということが課題となっていったので、その自分らしさとわかりやすさが同時にできずに苦しみました。

3月あたまの時点で、コースを修了することは、ある程度納得していたんですが、一度は4月の試験は見送ろうかと思っていました。
自信がなかったのです。

でも、諦めずに、自分らしさとわかりやすさの両方を満たすポイントがなんとか見つかり、無事落ち着いて試験を受け、見事合格できました。

独立してから、まあ、本当に怒涛のごとく動いたし学んだし、遮二無二やってきたなぁ、と実感しました。

その努力の結果のように認定をいただいたような気になりました。

今後また、これを活かして、「じぶん発見プロジェクト『しろにじカーサ』」、「マインドスペース 夢カフェ」、カウセリングやコーチングのセッション、GID支援機構電話相談員、そしてなにより「コアカウンセリング講座」を頑張ってやっていきたいと思います。

これからもみなさんよろしくお願いしますね。

あっ、それと、明日「じぶん発見プロジェクト『しろにじカーサ』【セルフイメージチェンジルーム】」ですよ。
まだまだ参加間に合いますので、ご参加ご検討ください。

2014年4月9日水曜日

「悩む」ということ

先日、ある講義を聞かせてもらい、そこで講師の方から「悩むことはするな、楽しいことだけをやれ」というようなお話を聞きました。
とても説得力のある、講師の方の体験からにじみ出たお話でした。

一方でボクは、先月の性同一性障害を取り上げた自分の「セクシュアリティ勉強会」で、「みんなもっと悩んだほうがいい」というような真反対のことを参加者のみなさんにメッセージとして伝えました。

それは、講義に反論したということではなく、「悩む」ということについて、自分のなかでよく考察したうえで伝えたものです。

もちろん、「楽しい」の真髄が捉えられていれば、「楽しい」ことだけやっていればいいと思います。
楽しい」ことに迷いがないのであれば、それでことがうまく運ぶだろうし、わざわざネガティヴに無理やり入り込む必要はないと思います。

ボクが言いたかったのは、「楽しい」ことだけやっていてもうまくいかなかったり、迷っているときに、直感で楽しくなさそうなことから逃げていつも良くない結果ばかりになる場合は、その「迷い」にしっかり向き合ったほうがいいと思うということです。

直感がいつも当たる人は壁にぶつかることはないでしょう。
いつも壁にぶち当たる人は、まず間違いなく無意識に何か違うものが隠れている、とボクが確信しているのです。

そこで、今回、また懲りもせず、「悩む」ということについて辞書で調べてみました(笑)。

〘自五〙
①いたみ苦しむ。病む。源氏物語賢木「例ならず時々―・ませ給へば」。天草本平家物語「中宮御懐妊あつて、もつてのほか―・ませられたによつて」。「神経痛に―・む」
②苦しむ。こまる。思いわずらう。万葉集15「安けくもなく―・みきて」。「恋に―・む」
③とやかく非難する。栄華物語花山「安からぬことに世の人―・み申して」
④(他の動詞の連用形に付いて)…に難儀する。…しかねる。源氏物語槿「石間の水は行き―・み」。「若手がのび―・む」
〘他四〙
①苦しめる。なやます。好色五人女4「暮方の障子をひらき、身を―・みおはしけるを」
②取り扱う。いじる。浄瑠璃、鎌倉三代記「手荒う―・むな、つい破われるぞ」

【岩波書店 広辞苑 第六版 DVD-ROM版】

ここでは、①の意味も含んでいるけれど、主に②の部分だと思います。
これだけ読むと、あまり「悩む」ということは良くないことのように感じます。

ちなみに「迷う」についても調べてみました。

〘自五〙
布の織目がゆるんで薄くなり、糸が片寄るのが原義。転じて、ものごとの整理がつかなくなる意。後に「まどう(惑)」と混同。
①布の糸が乱れて片寄る。万葉集14「風の音との遠きわぎもが着せし衣袂のくだり―・ひ来にけり」
②ものがもつれからむ。乱れる。源氏物語総角「髪はけづることもし給はで、程へぬれど―・ふ筋なくうちやられて」。源氏物語玉鬘「まかで参る車多く―・ふ」
③あちこちへ移り動く。入り乱れる。源氏物語野分「風さわぎ村雲―・ふ夕にも忘るる間なく忘られぬ君」
④道が分からなくてうろうろする。源氏物語須磨「いづかたの雲路に我も―・ひなむ月の見るらむこともはづかし」。「山で―・った」
⑤入りまじって見分けがつかなくなる。まぎれる。新古今和歌集秋「霜を待つ籬の菊の宵の間におき―・ふ色は山の端の月」
⑥心が定まらず、途方にくれる。決断がにぶる。心がぐらつく。源氏物語東屋「しめゆひし小萩がうへも―・はぬにいかなる露にうつる下葉ぞ」。狂言、布施無経ふせないきょう「愚僧は―・うた」。「身のふりかたに―・う」
⑦死人の霊が妄執もうしゅうのために成仏できない。謡曲、八島「―・ひけるぞや、生死しょうじの海山を離れやらで帰る八島の恨めしや」
⑧誘惑されて、判断力を失う。「女に―・う」「金に―・う」
⑨(「まどう(償)」との混同によって)償う。弁償する。旧宝幢院文書「各買ひ―・はせ、還付せしめ」

【岩波書店 広辞苑 第六版 DVD-ROM版】

ついでに、「」という文字の成り立ちについても調べてみました。

「悩」という文字は、「心」を表すりっしんべん(『心臓』の象形)と、「髪」と「乳児の頭蓋骨(『あたま』をあらわす)」をあらわすつくりでできた形声文字です。
つまり、心や頭をあらわすものという成り立ちです。

【漢字の成り立ち辞典】

文字の成り立ちについてだけ見れば、「悩む」ことは何も悪いことではないように思います。

悩む」ということは、何かふたつ(もしくはふたつ以上)の選択肢があって、どちらを選択するかに「迷い」があるから「悩む」のだと思います。

ふたつ以上の選択肢があり、すぐ最善のものを選べるのであれば、何も悩まないでしょう。
何か行動を選択しようとするとき、「行動したい」自分と「行動できない」自分が葛藤していると「迷い」が生じ、「悩む」ことになります。
行動したい」と思うのに「行動できない」ときは、「行動できない」理由が存在します。
また、「行動したい」ということは「行動できていない」自分が存在するから、「行動したい」と思うと思うのです。
このとき、「行動できていない」自分にダメ出しをし、「行動できない」自分にも無意識でダメ出ししているから、自己否定感でいっぱいになるので、「行動できる」わけがありません。
そして、いつまでたっても行動できずに、その一歩を踏み出せない自分にまたダメ出しをし続けるわけです。
このネガティヴスパイラルから抜け出さない限り、「行動できない」とボクは思ってます。

行動できない」自分になってしまったことには必ずなにかの理由があります。
それは、社会の圧力かも知れないし、理解されない状況かも知れないし、なにかのトラウマ経験があるかも知れないし、なにかのおかしな思い込みがあるかも知れません。

行動できない」自分をただの状態だと受け止め、自分にダメ出しをしないようになって、自己肯定感を上げていかない限り、いくら小手先のモチベーションを上げる方法をやってみたところで「行動できる」ようにはならないと思っています。
たとえ、一時的に行動できたとしても、根本の解決ができていなければ、一時的な対処療法にすぎず、また同じ失敗を繰り返すことは目に見えていると思います。
必ず抵抗が出てきます。

その見ないようにしている蓋があるとすれば、そこにちゃんと向き合い、自分にダメ出しをせず、次の行動を選択できる自分に変わっていかないと成長はありません。

向き合えない状況にあるときは、一時的にそのネガティヴな感情をそらしたり、一旦そのままにしておくことは必要かもしれません。

そのあたりをボクは自分の講座で伝えていきたいと思っています。

みんな、必要なときは、とことん悩みましょう。

2014年4月2日水曜日

じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」4月度「セルフイメージチェンジルーム」のご案内

新しい年度が始まりました。

いよいよ、じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」が始まります。

毎月第2日曜日は「セルフイメージシェンジ ルーム」です。

こちらでは、深く自分を理解し、よりよい行動の選択ができるように、コーチング・カウンセリングなどの手法を使って、参加者のみなさんにディスカッションやワークをしていただきます。

本当の「じぶん」、話してみませんか?

じぶん発見プロジェクト「

【セルフイメージチェンジ ルーム】

日時 : 4月13日(日)13:15~16:15
参加費 : 3,000円
参加定員 : 20名
場所 : 名古屋トヨペット 千種内山店 2F 第1会議室
   名古屋市千種区内山3-7-3(地下鉄東山通線・桜通線 今池駅1番出口徒歩約5分, 地下鉄東山線 千種駅3番出口徒歩約7分)


名古屋トヨペット千種内山店

どなたでもご参加いただけます。
興味のある方はぜひお問い合わせください。

今回は「思い込みを知る」というテーマで開催します。

しろにじカーサ受講生募集用チラシ表
しろにじカーサ受講生募集用チラシ裏

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   「しろにじカーサ」代表 豆腐(きまた宗則)

  Tel : 090(9262)8782
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たくさんの参加表明お待ちしております。