4月24日のCNNニュースで、「米女優ジョディ・フォスターさんが同性婚」というニュースが出ました。
↓詳しい記事はコチラ。
「米女優ジョディ・フォスターさんが同性婚」
http://www.cnn.co.jp/showbiz/35047022.html
ジョディ・フォスターが同性愛者であることは、ずいぶん前からよく言われていたことだし、去年は大々的にカミングアウトもしていたので、さほど驚きもしませんでした。
というか、ボクは勝手に彼女はスマートだし、そういう形式的なことは興味がないのかと勝手に思い込んでいました。
一方で、ネームバリューのある有名人がこういうことをおおっぴらにすると、いろんな人に影響も与えるし、たくさんのセクシュアルマイノリティの方たちに勇気を与えるとも思いました。
結局のところ、それぞれ個人の選択なので、自分が生きやすい選択をすればいいのだと思います。
そんなことを思っている矢先、4月30日のハフィントンポストに「『日本では同性愛を話題にすらしない』LGBTの祭典『東京レインボープライド』参加者が訴え」という記事が出ました。
↓詳しい記事はコチラ。
「日本では同性愛を話題にすらしない」LGBTの祭典「東京レインボープライド」参加者が訴え
http://www.huffingtonpost.jp/2014/04/27/tokyo-rainbow-pride_n_5222427.html
この訴えは「差別しない寛容さを持って」というのが主たる中味ですが、こういうことが話題に出るたびにいつもボクが思うことがあります。
こういう運動をして、汎く社会に存在を知ってもらい、生きにくさを少しでも和らげて、いろんな選択ができるように選択肢を増やしていくのは、とてもいいことだと思う、ということです。
このことは、本当に心からそう思っているので、勇気ある活動家の方々にはものすごく感謝をします。
でも、その一方で、ボク自身は今の社会でさほど生きづらさもなく、苦しんでいないせいもあって、今の世の中や、社会の制度や仕組みを受け入れているので、なんら変わることはありません。
カミングアウトする前の、ゲイである自分に罪悪感を感じてたころに、もっと寛容な社会だったら、早くに今の生きやすさを手に入れられらたな、と思います。
多くの方が、まだまだしんどい思いをしているし、当事者であるので、「マイノリティのパイオニア」とか名乗って、こういう記事を書いたりしているわけです。
ボクが望んでいるのは、もちろん寛容な社会であることでもあります。
でも、それより望んでいるのは、セクシュアルマイノリティ当事者の、内面です。
セクシュアルマイノリティに限らず、あらゆるマイノリティであるとも言えます。
今、セクシュアルマイノリティは5.2%存在すると言われています。
先日、左利きの人が全体の12%いると聞きました。
セクシュアルマイノリティの2倍以上いるとも言えますが、似たような数字であるとも思えます。
どちらもマイノリティであるとしたら、なぜ、セクシュアルマイノリティは左利きの方のように堂々としていられないのでしょうか。
かつては、左利きの方も矯正させられたものでした。
社会の理解の変化によって、ただの利き腕の違いのように捉えられていったように思います。
確かに、性の問題は、ただそうであるというだけで話題になりにくいダブー視されやすいカテゴリーだとは思います。
でも、最近は多くのオネエの台頭によって、それも和らいできていて、相当生きやすいようになったとは思います。
今日の朝の情報番組で、ジョディ・フォスターが取り上げられ、メインMCの方が「ジョディ・フォスターの子どもはジョディ・フォスターのことを『パパ』と呼ぶんだろうか?」という実に陳腐な疑問を投げかけていました。
そういうのを聞いて、当事者以外は何も違和感を感じないのです。
そういう世の中なのです。
理解されて始めてきた、とか言いますが、ボクが「同性愛者」だとカミングアウトしているのに「性同一性障害の豆腐さんはどう思うの?」とか訊かれたりします。
豆腐さんは「男役なの?女役なの?」とみんな平気で訊いてきます。
ボクは、性自認は「男」だし、「男」であることになんの違和感も感じていませんし、「男」として性対象が「男」なので、どちらがどちらの役割をするとかはないのです。
みんな、興味本位に興味を持ちますが、理解しようとして興味をなかなか持ちません。
ボクはそれが嫌で不快だと言っているのではないです。
みんな、当然そう思うだろうな、と思うので、普通に答えてますよ。
答えるのが面倒だとも思っていません。
でも、確実に、カミングアウトする前のボクは、そういうのが嫌でたまりませんでした。
だから、多くのセクシュアルマイノリティの方はまだまだそう思うだろうから、社会に知識を増やしてもらいたいな、と思います。
では、なぜ、ボクはそれが平気になったのでしょうか。
こういうことを多く取り上げてくれている番組などでも、当事者や周りが「まず理解をして欲しい」ということを言います。
ボク自身、「もっとボクらのことを分かってよ」と言わんばかりになっていた時期があります。
「そんなに分かってもらわないと何もできないの?」とも何度も言われました。
先日、このブログの「愛情というコップ」の記事で、「ボクは、ボクの望む幸せに見合った『愛情』をくれなかった親に対して、居心地の悪さを感じました。家はボクのいていい場所ではないと、ほかに居場所を求めました。親の期待に添えない自分を責め、ときにはそんな親に対して憎しみや怒りを憶えたりしていました」と書きました。
ボクの親は自分の子どもに「結婚して子どもを産んで家庭を持つ」ことが子どもの「幸せのカタチ」だと思い込んでいました。
しかし、それが同性愛者のボクには叶いませんでした。
ボクの求める「幸せのカタチ」は違うところにありました。
子どもの「幸せのカタチ」についてそういう思い込みを持った親に育てられると、子どもはどうなるでしょう。
ひとつの「幸せのカタチ」をそれしかないように刷り込まれて育てられると、そうでない子どもは「自分は幸せになれない」ダメな人間だと思うようになります。
しかもそのうえに、「親の期待に添えない」ダメな人間だと思うし、ほかのひとのように普通に「幸せな家庭を作れない」ダメな人間だと思うようになります。
その日常の繰り返しや積み重ねが、自己肯定感を失い、自己否定感でいっぱいになっていくわけです。
でも、ただ利き腕が違う子どものように、ただ恋愛対象として好きになる性別が多くのひとと違うだけと親に認識があれば、その一方的な「幸せのカタチ」の押しつけはしなくなるんじゃないでしょうか。
ボクは、そのひとと違う部分を隠すようにして、そうじゃない普通に出来る自分をアピールして、「ここまで長けている部分があるなら、そのハンデは見逃してくれるだろう」という無意識の思い込みで、反発で何でも頑張ってきたわけです。
いちばん肝心なコンプレックスを自他ともにダメ出ししているんだから、それはいつまでたっても生き苦しいに決まっています。
「ひとを好きになるのに性別など関係ない」と思えるようになるのには50年がかかったわけです。
なんとなく、そう思っていたけど、きちんと腑に落ちて、同性愛者であってもなんら恥ずかしいことなどなく、性の多様性のひとつだときちんと思えるまでは、50年かかったわけです。
「マイノリティであったっていいじゃん」と簡単には当事者は思えないのです。
だから理解を求めるのです。
寛容を求めるのです。
何度も言いますが、今は相当寛容な社会です。
でも、欲を言うなら、「豆腐さんはそのままでいいけど、やっぱ50歳で独身だと、どこか欠陥があるよね」ってみんなが思ってしまう世の中なのです、という感じはなんとかしたいところです。
そうして、多くのひとが、小さな表現ひとつに傷つき、「マイノリティだっていいじゃん」なんてとても思えないわけです。
ハンデと思わなくていいことを、ハンデと思わせてしまう社会や思い込みに憤りを感じます。
でも、そうなってしまったら、当事者自身が、まず、自分に「ハンデ」であり「ダメ」だと思っている部分を、「ダメ」じゃなくする必要があります。
周りが認めてくれたって、自分自身が「ダメ」だと思っていたら、「幸せ」にはたどり着かないと思います。
不公平さ・不条理さ・理不尽さは改善されたほうがいいと思います。
でも、その不公平さ・不条理さ・理不尽さから、権利取得に行きがちなんだと思います。
だから、こういう記事や話題はものすごくよくわかります。
ボクは、権利を主張する前に、自分の中味を整え、自己肯定感を上げる作業をしながら、今出来ると思える限りの最高の選択をしながら、生きていくほうが「幸せ」を感じられると思っています。
社会の寛容さは必要です。
それ以上に、自分のダメだと思い込んでいる部分を受け入れることが重要だと思います。
このところ、ずっと「共有」が大事だとも言ってきました。
「相互理解」と「受容」と「共感」が「共有」に繋がります。
小さいころから、親にいっぱい共有してもらってきた子どもは自己肯定感の高い子どもに育ちます。
だから、ちょっとくらいひとと違っていても、小さいころから、親や大人や社会の決めつけを押し付けず育ててくれれば、自己否定感でいっぱいの子どもにはなりません。
そして、それは、どんなに年を取ってからでも取り返しがつくのです。
ボクのように。
今からでも、自分自身で自己肯定感を高め、汎く共有感を得られれば、充分幸せになるのです。
そういうことがクリアされていれば、「カミングアウト」など、してもしなくてもどっちでもいいのです。
ボクのことを「面倒くさいヤツ」と思う方は、ぜひ、「あなた自身の中にある本当は大事な気持ちを面倒くさいからとおざなりにして見ないフリをしている部分の投影(反映)」だと思ってください。
みなさん、自分のココロと向き合って欲しいと心から願います。
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