2014年3月14日金曜日

自分で自分を虐待する

昨日は「中立になるということ」「自己理解をするということ」について書きました。

実は、それだけじゃなくて、続きがあります。
ここも、あくまでボクの持論なので、その辺を了承して読んでくださいね。

自己理解」をいくら深めても、それは自分のことをよく知ったというだけで、それだけではコミュニケーション行動の選択まではうまくいきません。
自己理解」のままで信念を貫き通し、わがまま自分勝手利己的に振る舞っていても理解されたり応援されたりということはなかなか難しくて、ひとりよがりになるばかりです。

自分を理解したように、相手も思いやり、相手の立場になってひとやモノや出来事を見て、同じように「相手理解」をすることがコミュニケーションを良くすることだと思っています。
ひとによって価値観(この言葉はあまり好きではないですが)はさまざまで、ひとがそれぞれのものさしでそれぞれの価値観を構築して生きやすく決断していくようになるのには、そのひとの育てられ方・環境・もともとの性格などいろいろな背景があります。
だれも同じ価値観は持っていない、ひとそれぞれ考え方が違っていて当然だということが腑に落ちていないとうまくいきません。

相手を傷つけないように、しかも自分の気持ちに正直に、でも押し付けず、寛大に感謝の気持ちを持って、それでもわがままにも自分勝手にも利己的にもならず自分をきちんと伝えないとうまくいきません。
自分に嘘をつかずごまかさず相手を受け入れながら、「自己開示」もしていくということは至難の技です。
ボクも四苦八苦します。

でも、考えてみれば、「自己理解」をした作業を相手にもするだけのことです。
自分を深く理解すること」が苦なくできるようになっていれば簡単なことなのです。
価値観の違う相手をすべて完璧に理解することそのひとではないからできません。
大事だと思うのはその「理解をしようとする姿勢」「受け止めようとする姿勢」だと思うのです。

自分」という輪と「相手」という輪の重なる部分は、「自己理解」と「相手理解」と「自己開示」の繰り返しで大きくなっていきます。
相互の「理解しよう」という姿勢がないと輪っかの重なりは大きくなっていきません。
その重なりがコミュニケーションであり関係性の構築だと思っています。

では、相手がその姿勢を見せないときはどうしたらいいのでしょう。
それでもボクは「自己理解」と「相手理解」と「自己開示」に努めます。
相手の価値観を変えようとするのは、自分の価値観の押し付けだからです。
ひたすら、「相手理解」に努めていると、相手もだんだん関わってくれるようになるんですよね。
まあ、もちろん埒が明かないときは関係性の構築をボクもよく諦めますけど(笑)。

そして、コミュニケーションがうまくでき、ひととの関係性が構築されたとしても、われわれは自分と関係性ができただれかとだけで生きていけるわけじゃありません。
よりよく自分が生きていくためには、今、社会がどういうルールやモラルや価値観の中で存在していて、その中で自分がどんな立ち位置にいるのかをよく見極めないと、よりよい行動の選択はできません。

昨日、ボクは「いい」「悪い」や「正しい」「間違い」のジャッジのない「中立」な感じが大事だと思うと書きました。
でも、社会には悲しいかな極悪非道な方もいらして、ある程度のルールが決まっていて、それを守らないといけないようになっています。
法律がたとえちょっと自分に都合が悪いものだとしても、それが改正されるまでは、法律に従って守らないと罰せられます。
そこは「知らなかった」と言っても通用しないのです。
法律になっていない暗黙のルールもあります。
だからいろんな人がいて、いろんな価値観があることを、ある程度わかっていないと社会では生きていけません。
それをボクは「社会理解」と呼んでます。

その社会のルールが今の時代に合っていないこともあるし、不公平で認められていないところもあります。
もちろん、それが多くの人びとの生きやすい社会になるようにどんどん変わっていけばそれに越したことはありません。
でも、今のルールがとりあえずある程度平均的なものさしで計られて決められた法律だったりルールだったりするわけです。
そこもそう簡単には変わりません。
自分がそこに合わせて対応を変えていくだけだと思っています。
自分を曲げろというのではなく、自分を大切にする気持ちは忘れずに、我慢にならない程度の妥協や抑制をしながら、我慢の溜まってしまう抑圧にならないように、周りや世の中や社会を見ながら、いちばん生きやすくできそうな「行動の選択」をしていくのが結局のところいちばん楽になるのだと思っています。
自分」という輪と「相手」という輪の重なり部分を多くするようなことをしながら、そこにもうひとつある「社会」という輪の3つの価値観の輪が重なっている部分で行動の選択をしていくのがいちばん生きやすいと思っているわけです。

ボクは、何か新しい重要な行動を起こすときは、この3つの輪を意識しながら行動の選択をしています。

そんな七面倒臭いことをみんなやっているかといえば、おそらくやっていないと思います。
でも、残念ながらボクは多くの人と違う価値観を持ってしまったマイノリティだから、この作業をしないとなかなかことがうまく運んでいかないんですよね。

多くのことを直感で「なんとなく」楽しそうなことだけやっていてもうまくいってそこそこ幸せなのであれば、その直感で生きていっても問題ないと思います。

でも、ちっともうまくいかない人はどこかに必ず「思い込み」や「決めつけ」があります。

コミュニケーションがうまくいかない、行動の選択が苦しかったり何度も同じ失敗になるということは、「自己理解」か「相手理解」か「自己開示」か「社会理解」のどこかに歪みがあると思っています。

少し、昨日の続きになりますが、深く「自己理解」をした本当の自分の気持ちを、「相手理解」「自己開示」「社会理解」をせずに、わがまま自分勝手利己的に出しているとそりゃあうまくいかなくなりますよね。

その、うまくいかないときに、多くの人が、相手や社会に合わせているふりをして、もっというと相手や社会の無理解のせいにして、せっかく「自己理解」した自分のいちばん大切な気持ちを諦めたり、自分のいちばん大切な気持ちに蓋をしたり、自分のいちばん大切な気持ちをなかったことにしたりしてませんか?

それって、自分のいちばん大切なところを無視している、自分に対する冒涜虐待自分でしていることだと思うんです。
自分に嘘をつく自分をごまかす…それは苦しいはずです。

「人の命の大切さを大事にしたい」「病に苦しむ人を助けてあげたい」大切な気持ちが根底にあって「お医者さんになりたい」と思っている人が、金銭的な理由や勉強が苦手で医大に行けなかったときに、「医者に向いていなかった」ことにしてませんか?
そうだとしたら、看護師でも介護士でも薬剤師でも本当の気持ちに近い気がするし、もっと言うとドラッグストアの店員でも本当の気持ちは貫けないでしょうか?
それを押し殺してサラリーマンになったりしてしんどいことになっていませんか?

本当は生き生きと働きたいと思っている主婦が、子育てや夫の無理解を理由に「良妻賢母なタイプ」だったことにしてませんか?
そうだとしたら、本当の気持ちは理解してあげておいて、今は子どもや夫のためにあえて時期じゃない別の行動の選択をしていると思っておくだけでいいのです。
いつか、子育てが終わり夫の理解が得られたときのために気持ちを大事に温めておくだけでいいのです。
無理に良妻賢母を演じるから辛くなるのです。
夢を持った生き生きしたお母ちゃんであり凛とした妻であればいいのです。

せめて自分だけは自分をいちばんよく知っている自分の理解者になってあげたら、たとえいろいろうまくいかなくても大丈夫だと思うんです。
だって最高の理解者が自分の中にいるのですから。

どうかみなさん、自分が自分の最大の敵にならないように、よく「自己理解」をしてあげてください。
自分を大切にしてください。
自分の心からの叫びを無視せずに受け取ってあげてください。
たとえそれが途轍もなくしんどいことであっても、自分だけは気づいてあげてください。

そして、自分を虐待しないでください

ボクはこれをじぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」で伝えていきたいと思います。

また、長すぎました(笑)。
最後まで読んでくださってありがとうございます。

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