2014年3月13日木曜日

中立になるということ

最近、ボクが自分を保っていられるのは、この「中立」な感じを自分なりに持つことができたからです。
中立」がわかりにくければ、「ニュートラル」な感じといえばいいんでしょうか。
コーチングスクールではそういう言葉の表現で教えてもらいました。

今、書こうとしていることは、スクールで教えてもらったことというより、それを知ったうえでボクが自分の中に腑に落とした部分なので、ボクの考え方として捉えてくださいね。
今の時点でボクが思っていることをうまく表現できるかどうかわかりません。
かなり感覚的な部分なので。
ただ、勉強会の報告などを書いている状態で、そろそろ現時点での今のボクの感覚を表現していかないと、ボクのやりたいことやこれからやろうとしていることは伝わっていかないと思ったので、あえて書いてみることにしました。
じぶん発見プロジェクト「しろにじカーサ」を立ち上げるうえでもね。

最近よく、ボクは「豆腐さん、メンタル強いね」とか「豆腐さんって、厳しいね」って言われます。
自分では、自分のことを「強い」とか「弱い」とかあまり思っていません。
結構弱い部分満載です(笑)。
ただ、言えるのは、ボクが自分のことを「強い」部分も「弱い」部分も持っていると思うし、「強い」からいいよね、とか、「弱い」からダメだよね、とか、思っていないということです。

中立」や「ニュートラル」は、「いい」「悪い」や「正しい」「間違い」のジャッジをなしに、状態として受け止める、もしくは受け入れることだと思っています。

弱い」のが嫌だったら、強くなろうと努力すればいいし、そのままでいいと思えば、強くないとできない部分は「強い」人に頼ればいいと思います。
そこにまた、「頼るなんて弱いよね、そんな自分ってダメだよね」ってジャッジが入っちゃうから、「強くならなければいけない」という思いが出てくるし、「弱い」自分をダメだと思っているから強くなることにハードルの高さを感じてしまって、より強くなれなくなっちゃう、っていうパターンに陥っちゃうわけですね。
しかもここには「頼ること」は「弱い」という決めつけがあるし、「弱い」ことだから「頼る」こともダメだよね、って思っちゃってるから、頼れなくなってしまう。
そしてさらに「強い」人に憧れを持ち崇めてしまい、自分はできないことだからと劣等感を持ってしまう。
さらにまた「こんな自分ってダメだよね」ってなってしまう(憧れたり崇めたりするのがいけないといっているのではないですよ)。

この連鎖が苦しみを生むと思うんです。

頼る」という言葉には、「自発的にできない」という側面もあるけど、「それだけ人を信頼している」とも言えます。
頼る」ことは「いいこと」でもあるし「悪いこと」でもあるけど、もっと言っちゃうと、「頼る」ことは状態であって、「いいこと」でも「悪いこと」でもない、っていうふうに思えたら「自分をダメだ」とは思わなくなるっていうことです。
それを決めつけて思い込むから、ダメ出しが始まるんですよね。

ジャッジを全くするな、というのではなく、人は何かを判断していくときに、どっちがいいかを判断して選択をしていると思います。
ただ、自分の判断で何度も同じ失敗を繰り返してしまうときには、そこに偏った思い込みがありませんか?と自問自答しないと失敗は続くと思うんです。

よくボクは、直感だけで動く人を苦手だと言っています。
苦手という表現を使っているけど、きっとボクはそういう人があまり好きじゃないんだと思います。
直感でうまくいっていればそのままでいいんだけど、その直感でいつも前に進めなくなるんだったら、「なんとなく」嫌だからその選択をしない、ってのはちゃんとその「なんとなく」を見つめたら解決することが多いと思っているわけです。
その「なんとなく」に変な劣等感や罪悪感やコンプレックスがくっついていないですか?
その劣等感や罪悪感やコンプレックスが「なんとなく」嫌だと思わせていませんか?
を問いたくなります。

先日。ボクは、Facebookにこんな書き込みをしました。

うつをどうしてもやめたくなって、カウセリングを受けながらNLPを学んだ。
自分と向き合いたくなり、コーチングを学んだ。
違和感と向き合わざるを得ない状況になり、鏡の法則に徹して成長した。
成長段階で、次元が上がると、鏡の法則では腑に落とせなくなり、パラレルワールドに没頭した。
すべてを受け止めきれなくなり、 女性性を高めることに挑んだ。
思考の現実化も統合もわかるようになってきた。
物事が解決しないことも、科学で解明できないことも、なんとなく理解した。
頼ることも、完璧主義を緩めることもやってきた。
中立感を実感した。
どんなに頑張っても結果がすぐついてこないことも受け入れた。
諦めることを覚えた。
そして、諦めない自分も受け入れた。
結果がついてこないときに人や物事と関係することも自分なりに取り組みだした。
もうこれ以上何をどうしていいかわからないのもなくなってきた。
どこに挑戦し、どこで流れに乗るかも、感覚がつかめた気がする。
もう自分の哲学や思想は固まった。

それでも、まだまだな自分もいっぱいいる。
まだまだやることは出てくるかも知れない。

だいぶ、理想に近づいたけど、
自分のこと大好きだし、大切にできているけど、
傲慢にならないように、天狗にならないように、謙虚でいようとする自分が、いろいろブレーキをかける。

でも、もっと自分を信頼し、もっと自分に自信と誇りをもつ許可を出していいと思う。
今はなんだかそう思う。


うつをやめようと思ったときは、まだ「うつなんてダメだから」「うつなんて弱い自分だから」と思っていました。
そこから脱出するために学ぶうち、ボクの過去の人生は、ダメ出しにダメ出しを上塗りし、そんな自分を受け入れられず否定しまくって、そんな自分には蓋をし、隠し続けて、自分の強いところ、闘えるフィールドで優越感を味わおうと必死でした。

その最たる部分が「同性愛者である」自分を「受け入れられない」ことでした。

受け入れられない自分はひた隠し、「普通」を装える自分を前面に出し、弱くないと思っている部分はとことん強くなってやろうと思いました。

仕事、マラソン、料理などの得意分野で、人からの評価を気にしながら、まだダメ、まだ弱い、と自分を追い込み完璧を目指し、そのうち、その無理矢理な頑張りを受け止められなくなった心と体は壊れていきました。

結局のところ、いくら頑張っても、結婚し子供を作り子孫を残し苗字と墓を守ることで幸せになって欲しい親の期待は、他のものでは変えられませんでした。

母の介護がピークに来て、母の期待に沿うどころか、うつで面倒も看られなくなり、特別養護老人ホームに追いやった罪悪感に駆られました。

うつから脱出しようと思って、自己啓発な学びをして、結局ボクは、親の期待に応えられない自分を受け入れて、「それはできない、無理なんだ」と言う選択しかありませんでした。

周りから「気持ち悪い」と言われ続け、「本当に男が男を好きになること」に罪悪劣等を感じなければいけないのか、すべての自分の中のこだわりを捨てて考えたとき、ボクはそれが、「社会の決めつけ」であることに気づきました。

ひとを好きになるのに、性別は関係ないはず

ここから、ボクの自分を受け入れる作業が始まりました。
ゲイである」ことが苦しくなくなりました。
むしろ、ゲイだからこそ感じられるものがあると気づきました。
ゲイでなければ経験できない貴重なものがあることに気づきました。
ゲイであることがだんだん誇りに思えるようになってきました。

ボクは自分の全部を受け入れるためには、母にカミングアウトをする以外、考えられなくなりました。
しかし、それは自分のわがままを貫くだけではないのか、母はショックを受けて苦しむだけの結果にならないか、死ぬほど苦しい局面で究極の選択をしました。

でも、ゲイである自分受け入れたボクには、そのことを伝えるとき、もはや母に対する苦しみは「ゲイに産んでくれてありがとう」の感謝に変わっていました。

結果、母はボクのカミングアウトによって、「自分の介護で息子をうつにした」という勘違いからくる罪悪感から解放されることになりました。
まあ、ここはおまけでついてきたことではあるけれども。

これがまだ2011年12月のハナシです。

うつになったことも結局同じでした。
うつであった」ことが苦しくなくなりました。
むしろ、うつだったからこそ感じられるものがあると気づきました。
うつでなければ経験できない貴重なものがあることに気づきました。
うつであったことを乗り越えたことがだんだん誇りに思えるようになってきました。

でも、自分を受け入れ堂々と生きられるようになってからも、ずっとずっとまだまだやってくる違和感に向き合い続けてきました。
自分をごまかしていることに気づくたびに、逃げずに向き合ってきました。

そうして、やっと去年の秋に完全に腑に落ちたことが、物事にも出来事にも「いい」「悪い」や「正しい」「間違い」はないということ。
それは社会が作った「決めつけ」であること。
そして、さらに自分のなかに「思い込み」を作ってしまうことが起こしていること。

自分の中に、自分が苦しくなるような「決めつけ」や「思い込み」を自分で作っていたことに気づけば、苦しいことは何もなくなり、恥ずかしいことも何もなくなるのです。

そして、つい先日のFacebookの投稿のときに、この感覚があれば、「傲慢にならないこと」「天狗にならないこと」「謙虚でいなければならないこと」に縛られてまた苦しくなる必要もない気がしてきたわけです。

中立」を手に入れるためには、相当なしんどさがつきまといます。
もしかしたら、しんどすぎて受け入れられなさ過ぎて、死にたくなっちゃうかもしれません。
でも、これを手に入れたら、苦しいことなんてなくなります。
苦しむことが素晴らしいものだとさえ思えるようになります。

本当は心の奥が苦しんでいるのに、蓋をして明るいふりをして、「なんとなく」で生きるということが、いかに自分の本心をないがしろにし、いかに自分に不正直であるか、考えてみてください。

そして「中立」を手に入れたら、なんでも「受け入れられる力」をつけたら、怖いものなど何もないのです。
びくびくして生きなくていいんです。

みんな、自分の本心には自分自身が味方であってください。
自分自身を大切にしてください。
せめて、自分だけは自分自身をわかって守ってあげてください。

ボクの言う「自己理解」とはそういうことです。

長すぎました。
読んでくれてありがとう。

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