2008年6月15日日曜日

ハーヴェイ・ミルク


 ハーヴェイ・バーナード・ミルク、Harvey Bernard Milkは 1930年5月22日生 1978年11月27日没、アメリカの政治家でゲイの権利活動家である。英語では正式には「ハーヴィー」と発音される。1977年カリフォルニア州サンフランシスコ市の市会議員に当選し、自らゲイであることをカミングアウトする。しかし、1年も経たない1978年11月27日、同僚議員のダン・ホワイトにより、ジョージ・マスコーニ市長とともに同市庁舎内で暗殺された。
 誕生時の名前はハーヴェイ・バーナード・ミルク、祖父がニューヨーク州ウッドミアでミルク百貨店の所有者だったことから姓をミルクと変更した。若い頃、彼の大きい耳と鼻と足から、風変わりな外見だとしてグリンピーというニックネームをつけられれた。生誕地はニューヨーク州ウッドミアで、1951年にニューヨーク州立大学オールバニー校を卒業し、米国海軍に入隊、名誉除隊となるが、後の選挙運動中、軍隊での同性愛者粛正の犠牲者となったと語っている。海軍での勤務の後、テキサス州ダラスで生活したが、ユダヤ人であることが影響して就職には不利だった。彼は自由が多いニューヨーク市に転居して、ウォール街で働いた。また、多くの演劇にも製作者として参加した。1972年にミルクは多くの友人がいるサンフランシスコに引っ越した。彼はパートナーのスコット・スミスと居を構えて、カストロ・ゲイ・ヴィレッジでカメラ店カストロカメラを開いた。共同体のリーダーとして頭角を現し始め、地元の商人から成るカストロ・ヴァレー協会を設立し、近隣の事業主の代表となった。
 ミルクは1973年と1975年にサンフランシスコ市議会に立候補し、落選した。彼はサンフランシスコの大きいゲイコミュニティーの表看板として頭角を現した。選挙のたびに支持者を増やし、ジョージ・マスコーニ市長は1976年に強力な許可証嘆願委員会に彼を任命したがその後、彼はカリフォルニア州議会議員選挙に立候補を表明し、投票総数33,000票で、対立候アート・アグノスに3,600票差で破れた。しかしサンフランシスコが大選挙区制から小選挙区制へ切り替わった後は1977年の3度目の立候補で市議に選ばれた。ミルクはゲイであることをカミングアウトした初めての合衆国の公職に選ばれたことになる。彼は11ヶ月の在職期間中に、犬の糞の放置に罰金を科す条例や、同性愛者権利法案を後援、制定を目指していた。そして同性愛の教職者を性的嗜好を理由に解雇できるとする条例の破棄に尽力し、1978年11月にカリフォルニアの住人によって否決された。ミルクはサンフランシスコの民族系住民や労働組合幹部と連帯を作ることに成功したが、残念ながら一般庶民との連帯は取れなかった。
 ミルクは、前の執行委員ダン・ホワイトによって1978年11月27日に市庁舎でジョージ・マスコーニ市長とともに射殺された。ホワイトはそのわずか数日前に、財政的困難と政治的な挫折で辞職していた。ホワイトは市庁舎に入り、マスコーニを撃った。ホワイトはそこでミルクと出会い、ホワイトが曰く、ミルクが薄笑いを浮かべたとのことでミルクの胸と頭を合計2回撃った。ミルクの葬儀の晩、キャンドルライトによる追悼の通夜に何千人も参加した。
 ホワイトは責任軽減が認められた上で計画的殺意のない殺人で有罪とされ、7年8ヶ月の禁固刑を宣告された。この判決にはホモフォビアに基づく考えがあり寛大すぎるとして広く非難された。ホワイトは5年の間服役し、仮釈放となった。
 判決の後に、ゲイコミュニティーは後に「ホワイト・ナイトの暴動」に突入した。評決が出ると同時に、ゲイコミュニティーの集団が官庁街に向かって速く歩き始めた。午後8時までにはかなり多数の暴徒が形成された。1984年のドキュメンタリー映画『ハーヴェイ・ミルク』によれば、激怒した群衆は復讐と死罪を要求して叫び始め、暴動が始まった。
 ボクが彼を知ったのは前述のドキュメンタリー映画を観た時だ。ドキュメンタリーなのに、多くのキャンドルで彩られた通夜のシーンでは涙が出てきた。ハーヴェイ・ミルクはゲイコミュニティーとゲイの権利運動の殉教者であるとされて、ハーヴェイ・ミルク研究所やサンフランシスコのハーヴェイ・ミルク・レスビアン・ゲイ・両性愛者及びトランスジェンダー民主クラブなど、多くのゲイ・レスビアンの共同体協会がミルクの名をちなんで命名した。ニューヨーク市のハーヴェイ・ミルク高等学校などオルタナティブスクールにもその名にちなんだ学校がある。英国のウォーウィック大学の食堂は、ハーヴェイズと命名された。ミルクは以前から自分でも暗殺の危険を察知しており、その場合に再生されるようににいくつかの音声テープを録音していた。その中に「もし一発の銃弾が私の脳に達するようなことがあれんば、その銃弾はすべてのクローゼットの扉を破壊するだろう」と言っている。クローゼットとはゲイの人々がそれを隠していることの象徴である。
映画『ハーヴェイ・ミルク』はハーヴェイ・ファイアスタインがナレーターを務め、アカデミー賞で1984年ドキュメンタリー映画賞を受賞する。
 ハーヴェイ・ミルクを主題にした音楽作品も多くあり、ブルー・ジーン・タイラニーの「ハーヴェイ・ミルク(肖像画)」、デッド・ケネディーズの「I Fought the Law」、バンド・コクリートの「God is a Bullet」、1990年代初期にジョージア州アテネでメタルバンド「ハーベイ・ミルク」も誕生し、このグループは現在も活動している。オペラ「ハーヴェイ・ミルク」も誕生し、1999年の映画『Execution of Justice』でもミルクの暗殺が再現されている。 ブライアン・シンガー監督が、今年公開予定しているミルクの伝記映画 『カストロ通りの市長』を監督しているし、ガス・ヴァン・サントがショーン・ペン、ジョシュ・ブローリン、ジェームズ・フランコ出演で映画 『ミルク』の撮影にとりかっかている。
政治のことはよくわからないが、ドキュメンタリー映画で興味を持ったので、ぜひ、この2作品は観てみたいと思っている。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

すごい人だね。。。
神様みたいな存在なのかな??

torff さんのコメント...

◆志保たん、コメントありがとう。
ドキュメンタリー映画で取り上げようかなとも思ってた。
でも、彼を描いた公開待機中の映画が2本あるので、それを見てからかな。
神様よりはずっと人間ぽい人物だよ。