2008年5月18日日曜日

エルトン・ジョン


 エルトン・ジョンとの出会いは「僕の歌は君の歌」を聴いたときで、それがだれのどんな歌かも知らなかった。多分、始めて洋楽に色気を持ち出した小学生高学年のことだったと思う。彼が両性愛者で、人物として興味を持ち始めたのはたぶんもう20代に入ってからだろ う。まあ、特に好きなわけではないけれど、歌に関してリスペクトはしている。

 エルトン・ジョンは、に1947年3月25日にイギリスのミドルセックス州ピナーでRAFの飛行中隊長だったスタンリー・ドワイトと妻シェイラの息子として生まれた。本名は、レジナルド・ケネス・ドワイト。彼は母親や親戚の女性に育てられ、父親と過ごした時間はわずかだった。ドワイトが15歳の1962年に離婚、母親はその後再婚し、義父をダーフという愛称で呼んでいた。
 4歳から、ピアノを弾き始め、耳で聴いたメロディーをすぐに演奏し神童と呼ばれた。11歳のときに王立音楽院に合格、音楽に専念するため、6年間在学した。
 1969年友人とコルヴェッツというバンドを結成。このバンドがやがてブルーソロジーに発展する。昼は音楽出版社への売り込みに奔走し、夜はロンドンのホテルでの単独ライブか、ブルーソロジーとして活動をしていた。1960年代半ばまで、ブルーソロジーはバックバンドとしてツアーを行った。リバティ・レコードのミュージシャン募集広告に応募し、これが今日まで続くレイ・ウィリアムズとのパートナーシップの始まりとなった。1967年バーニー・トーピンとの最初の共作曲「スケアクロウ」が書かれる。トーピンと出会って半年後、尊敬していたバンドでサポートをしていたロング・ジョン・ボルドリーとブルーソロジーのサックス奏者エルトン・ディーンの名にあやかり、自分の名前をエルトン・ジョンに改めた。ジョンとトーピンで、1968年にディック・ジェイムズのDJMレコードにソングライターとして入社し、様々なアーティストに楽曲を提供した。トーピンが1時間未満で歌詞を書きジョンに渡し、ジョンは30分ほどでそれに曲をつけた。音楽出版社のスティーヴ・ブラウンの助言により、自分のデビューレコードのために、トーピンとより複雑な曲を書き始める。最初の作品は1968年のシングル「アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー」だった。1969年には、シングル「レディ・サマンサ」とアルバム『エンプティ・スカイ』を録音した。これらは高い評価を得たものの売り上げは芳しくなかった。ソロデビュー後も、スーパーなどで名前を隠して歌ったり、オーディションを受けるなどして、音楽活動を続ける。
 彼がようやく花開くのは1970年のセカンド・アルバム『僕の歌は君の歌』。先行シングル「僕の歌は君の歌」が全米トップ10ヒットの売り上げを伸ばした。1972年から黄金期を迎える。アルバム『ホンキー・シャトー』が初の全米1位を記録、1975年の『ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ』まで、彼は7枚連続で全米1位に送り込んだ。本国のイギリスでも『ピアニストを撃つな!』が1973年度の年間チャート1位になるなど、彼の人気は世界的なものとなった。1974年には所属していたMCA傘下にレコード・レーベル、ロケット・レコードを設立。以降彼のアルバムはこのレーベルから発表された。1973年発表の2枚組『黄昏のレンガ路』は、現在も一般的な彼の最高傑作として評されているる。1975年のアルバム『キャプテン・ファンタスティック』は、全米ビルボードのアルバムチャートで史上初となる初登場1位を記録、1974年に発売されたベスト盤『グレイテスト・ヒッツ』は、彼のアルバムとしては最も大きな商業的成功を収め、米国では歴代15位のベストセラーとなっている。1974年には映画『トミー』に出演している。
 1976年ののキキ・ディーとの「恋のデュエット」以降、ハイペースでのレコード発表とステージ活動が精神や肉体に支障を来した。アルバム『ロック・オブ・ザ・ウエスティーズ』は商業的な成功を収めながらも評論家からは酷評され、プレッシャーから彼の心に迷いが生じ、アルバム『蒼い肖像』を発売すると彼は引退を表明して音楽活動を休止する。このときローリング・ストーン誌で両性愛者であることを公表した。約2年の活動休止期間を経てカムバックしたが泣かず飛ばず、1980年代を通してのシングルでほぼ毎年ヒット曲を連発していたが、常に全盛期のイメージと比較され、ヒット曲が出る度に「エルトンの復活」と称された。しかし、全盛期との違いとしてアルバム・セールスは大きく伸び悩み、1987年に行った長期公演では喉を悪化、声帯の手術を行っている。以降、彼のヴォーカル・スタイルおよび歌声は大きく変貌した。
 彼は1984年にドイツ人のレコーディング・エンジニア、レネーテ・ブリューエルと結婚。彼女との結婚生活はさまざまなスキャンダルを呼び、最終的には4年後の1988年に離婚に至った。1980年代後半の彼は精神的にも不安定で、過食症やアルコールの過剰摂取がエスカレートしていた。1990年、薬物とアルコール依存症、過食症の治療のため入院。更生施設への入居を経てカムバックしたジョンは、翌年のアルバム『ザ・ワン』で再び好調なセールスと高い評価を得る。多くの友人や知人などをエイズで亡くした彼は、1992年以降シングルの全収益を自ら設立したエイズ患者救援者団体、「エルトン・ジョン・エイズ基金」に寄付するようになった。
 その後の彼は順調にそこそこのヒットを生産しグラミー賞最優秀ポップ男性ボーカル賞とアカデミー歌曲賞を受賞するなど高い評価を受けた。1997年9月ダイアナ元皇太子妃への追悼歌「キャンドル・イン・ザ・ウィンド 1997」をシングル発売する。この曲は全世界で3700万枚以上のセールスを記録。ビルボードHOT100とシングルセールスチャートで14週、カナダの公式シングルチャートで46週、その他日本をはじめとする世界各国のヒットチャートで首位を獲得し、シングルとしては史上最も多くの枚数を売り上げた。この楽曲の成功により、ジョンは1998年度のグラミー賞で最優秀男性ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞している。1998年にはミュージカルや映画サントラ盤などにも進出した。
 最近はミュージシャンとしての活動そのものよりも、かつて親交が深かったジョージ・マイケルやマドンナといった他の歌手への批判、中華民国のパパラッチに対する暴言など、過激な言動や奇行などが取り沙汰されることが多い。また2005年には、イギリスで同性同士の準婚関係を認めるシヴィル・パートナーシップ法の制定を機に、15年来のパートナーだったデヴィッド・ファーニッシュと同性結婚し話題を呼んだ。
 現在は本名もレジナルド・ケネス・ドワイトからエルトン・ハーキュリーズ・ジョンと改名し「サー」の称号も得ている。 長年自身の容姿に劣等感を持っていたことをインタビューなどで語っている。1970年代の前半ごろから既に頭髪が薄くなりカツラを使用していた。1990年代に植毛手術に成功。21世紀に入っては視力矯正手術も受けている。繊細さと荒々しさを併せ持つ性格で、過激で辛辣な言動などから、常にゴシップでとりあげられる存在。一方取材に対して饒舌で、舌禍事件を起こすこともしばしばある。自身のコンプレックス、同性愛を笑い話として披露することも多い。交友関係は非常に広く、数多くのミュージシャンのみならずデビッド・ベッカムをはじめとするサッカー選手などとも親交がある。

 かなりはしょっても、こんな長くなってしまった。ゲイシーンへの関与はボクらに勇気と自信を与えてくれる。そんな背景の中での音楽をボクは20歳代とは違った気持で感慨深く聴いている。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

こんにちわ。

もっと、順風満帆な人生かと思っていました。。。
薬物、アルコール依存、過食症は心の病だから、色々苦しんだんだろうね。。。
結婚できてよかったな、と思います。。。
彼は父親の愛が薄かったみたいだけど、そういうのって、ゲイやバイに関係するのかな??

匿名 さんのコメント...

追伸。。。

あのね、私の好きなバレエダンサーのジョルジュ・ドンも同性愛者だよ。。。
うろ覚えだけど、恋人をとって、舞台に穴をあけたことがあるらしいよ。。。

torff さんのコメント...

◆志保たん、コメントありがとう。
うん、そうだね。薬物やアルコール依存は知っていたけど、改めてすごいね。
ジョルジュ・ドンについてはちょっと調べてみてまた取り上げるね。
ありがとう。