2009年10月29日木曜日

ぼくと彼が幸せだった頃

 “ぼく”アンドルゥは、裕福な家に生まれ、コロンビア大学で哲学と音楽を専攻する非の打ちどころのないプレッピー。“彼”テッドは、オフ・ブロードウェーの俳優で金髪の美青年。スポーツジムで体を鍛え、無数のパートナーとセックスを楽しむ、美貌か才能か富を持ったゲイたち。輝くような1980年代のゲイカルチャーを、不意を打つように襲ったのは、エイズだった。死の恐怖と葛藤する中で、“ぼく”と“彼”が家族や友人たちと心を通わせていくさまが、心を揺さぶる。“彼”が去り「なんであいつを愛さなきゃいけなかったんだ!」と叫ぶ“ぼく”に、友人は「人は相手が男だろうと女だろうと、誰を愛するか自分で選ぶんじゃない。自分の愛情を拒絶して惨めに重いをするか、それとも素直に受け入れ喜びとして味わうか、を選べるだけなんだ。」そう言った。
 1980年代中ごろ、アメリカがエイズ禍に揺れている頃で「ゲイであること」というのがかつてない程微妙な問題であった頃。そういう時代を背景に、同性愛の自覚、成長、セックス、愛憎、エイズのことなどを一人称の主人公を通して描いている。散文的な文章、美しい表現、青春の輝きが詰め込まれた小説。エイズに侵された青年が、自らの自伝を執筆する、という設定で物語は進んでゆく。大胆な性描写はほどんどなく、ここで描かれるのは、ゲイカルチャーと共に、その中で育まれた真の愛情と友情である。興味本位では立ち入ることのできない、愛の物語である。“ぼく”と“彼”のお互いを思いあう気持ちは、ラストで涙を誘うこと間違いない。
 死の予感によって結ばれる人間同士の共感が繊細に描かれ、優しい気持ちにさせられてしまう極上の恋愛小説だ。いまではありがちな物足りない小説かもしれない。しかし、当時はカミングアウトはとても壁が高く厚いもので、差別の絶頂期だったと思う。その中でのこの小説はボクなりにセンセーショナルではあった。エイズで死の際にいる若い投資銀行行員は、ニューヨークでの豊かで活気のある彼の短い一生を振り返って、彼の恋人への「最終的な贈り物」として彼の言葉を綴る、瑞々しい言葉を並べたてて。しかし、その“彼”はすでに亡くなっている。なんとも悲しい物語だ。
この作品が発表されたあと、その前の作品「ジョセフとその恋人」が、同訳者、同出版社から発売された。「ぼくと彼が幸せだった頃」はクリストファー・デイヴィスの2作目の小説である。前作の方が難解で読みづらい。こちらはバックボーンが“エイズ”ではなく、“老い”である。これも悲しい。クリストファー・デイヴィスはゲイの不幸な末路を悲しみを湛えて表現し続ける作家かもしれない。きっと、彼にとってゲイはそもそも悲しい生き物なのだ。


「ぼくと彼が幸せだった頃」原題“Valley of the Shadow”, クリストファー・デイヴィス著, 福田広司訳, 早川書房, 1992年2月発売, 1529円

2009年5月17日日曜日

あるスキャンダルの覚え書き


 ロンドン郊外のセントジョージ総合中等学校で歴史を教える初老のバーバラ・コヴェットは、非常に厳格で生徒に知られているベテラン教師、何に対しても常に批判的な上、斜に構えた態度や単刀直入な物言いで周囲から疎んじられていた。孤立しているバーバラはある日、美術教師シーバ・ハートに目を留めた。家族も親しい友人もおらず、飼っている猫だけが心のよりどころだったバーバラは、シーバとの友情に固執するようになる。彼女こそ、私が待ち望んだ女性に違いないと、シーバの様子に執拗に目を配り、日記に彼女のことを夜毎書き綴る。ある日、シーバのクラスで騒動が起こる。偶然、通りかかったバーバラが殴り合う男子生徒を一喝し、騒ぎを収拾した。シーバは心からの感謝をバーバラに捧げ、バーバラを自宅に招くことになった。美容院で髪をセットし、花束を手にいそいそとシーバ宅を訪れたバーバラを出迎えたのは、シーバの夫と長女、ダウン症の長男。幸せを絵に描いたようなブルジョワ家族の休日を皮肉的に見つめるバーバラだったが、食後にシーバから人生の不満や夢を打ち明けられ、彼女との友情を勝手に再確認した。しかし、この友情には価値観の違いがあった。バーバラは神聖なものだと思い込んでいた。演芸会が行われた夜、シーバを探しに美術教室に向かったバーバラは、シーバが男子生徒とセックスしている姿を目撃する。その少年とは以前バーバラが叱った少年スディーヴン・コナリーだった。その関係に気づかなかった自分を呪ったバーバラは、シーバを呼び出し、すべてを告白させる。シーバはバーバラの強い厳命を聞き入れ、コナリーとの別離を決意した。秘密を握ったバーバラとシーバの間には、微妙で奇妙なバランスの友情が培われ始める。
 美しい美術教師と、彼女に執拗な関心を抱くオールドミスの教師とのスキャンダラスな関係を描く心理スリラー。これは実際にアメリカで事件。『アイリス』のリチャード・エアーが映像化した。オスカー女優のジュディ・デンチとケイト・ブランシェットが、火花散る演技対決を繰り広げる。孤独な年配女性教師の屈折した友情が、徐々に偏った愛情へと変化し明らかになっていくストーリー展開に引き込まれる。
 イギリスのブッカー賞で2003年の最終候補に残り、イギリスとアメリカ両方のベストセラー・リストに載ったゾーイ・ヘラーの「あるスキャンダルについての覚え書き」。激しい映画化権獲得の争いが繰り広げられた。スコット・ルーディンとロバート・フォックスのコンビが獲得し、原作を読んだルーディンは、バーバラを演じられるのはジュディ・デンチしかいないと確信していた。物語の非常に主観的なナレーターを含め、言動に悪意すらにじませる老女バーバラをデンチが貫祿たっぷりに演じている。平穏な家庭生活を営むなかで、子宝にも恵まれたが、人生に意義を感じることも自分に自信を持つこともできず、ふとしたきっかけでスタートした禁断の生徒とのセックスにのめりこみ、身動き取れなくなっていくキャラクターをケイト・ブランシェットも繊細さと大胆さを絶妙に配分した演技で人間の欲望をコントロールできない中年女を演じている。何かがバーバラの歪んだ感情を露呈させてしまった。急速にバーバラとシーバは親しくなっていくなか、誰ひとり自分を気に留めてくれなかったバーバラに、学校に行けば若く美しいシーバがほほ笑みかける。孤独なバーバラは友情とはほど遠い感情に翻弄されていく。シーバの抜け毛を偶然手に入れ、まるで宝物のように丁寧にハンカチに包み持ち帰り、大切な日記にスクラップ。シーバに自宅に招かれ社交辞令のつもりが、特別なことと思ってしまうバーバラ。シーバとの友情を美しいものだと信じて疑わないバーバラ。毎日、彼女とのささいな出来事を妄想とも言える表現で綴る。生徒と女教師のセックスを道徳的に考えて妥当な意見で喝するバーバラだが、本心は果たして……。どんどん友情の固執と嫉妬に異常な状態になっていくバーバラ。
 この映画の中で、バーバラがシーバの腕を取り、指を滑らせていくシーンがいちばんエロティックで異常なものに感じました。彼女が自分の同性愛的要素に気づいていれば、それは異常な行動でもないんだけれど、友情の枠は超えている。嫉妬もストーカー並み。これはレズビアンを内包した、複雑で、デモストレートでもな感情の人間の欲望のドラマだと思う。
 欲望むき出しのエゴイストな老女は、シーバとの関係ののち、ラストでまた同じ過ちを繰り返す。人間はこんなにも醜い生き物なのか。それとも、偏った愛情は人間の理性を打ち砕いてしまうのか。心苦しくなる映画でした。

◎作品データ◎
『あるスキャンダルの覚え書き』
原題:Notes on a Scandal
2006年イギリス映画/上映時間:1時間38分
監督:リチャード・エア
出演:ジュディ・デンチ, ケイト・ブランシェット, ビル・ナイ, アンドリュー・シンプソン, トム・ジョージソン

2009年5月9日土曜日

ペット・ショップ・ボーイズ


 ニール・テナントとクリス・ロウ ニール・テナントとクリス・ロウによる不世出のデュオ、ペット・ショップ・ボーイズ。 1981年にミュージシャンで音楽誌エディターだったニール・テナントと、建築学を学ぶ大学生だったクリス・ロウの2人が出会って意気投合し、ユニットが結成された。楽器屋で同じキーボードに二人同時に手を出したことより 運命的なものを強く感じたとのこと。当初は「ウエストエンド」と名乗っていたが、たまたま二人に共通の友人がおり、その人物がペットショップで働いていたことより変更した。1984年、イギリスのエピックから「ウエスト・エンド・ガールズ」でデビュー。1985年に「ウエスト・エンド・ガールズ」をよりポップにして発売。世界の音楽シーンのトップへ一躍上りつめる。日本でも知られるようになった。以降は現在に至るまでメガヒットの連続。「哀しみの天使」、「とどかぬ思い」など多数。また、は様々なアーティストと共作、プロデュース、リミックス等で関わってきたことでも知られている。 哀愁漂うメロディーライン、ニールの虚無的で透明感に満ちたヴォーカル、艶やかで儚いポップの神髄。徹底的に冷めた目線を持ちながら、確信犯的にポップ・ミュージックを追求してきた。ほかのミュージシャン、DJ、リミキサー達から今も高くリスペクトされている。基本的なメロディーラインはクリスが作成している。数多くの作品がダンスミュージックとしても高く評価されているほか、前衛映画の製作も務めるなど、多彩な才能を持っている。歌詞を含め、様々な社会的事象を風刺した楽曲を作ることもよくある。ニール自身の体験が基になっている宗教的な曲「イッツ・ア・シン」などは、その代表作である。また、1991年のソビエト連邦崩壊にインスピレーションを受け、社会主義リアリズム的な表現を取り入れたように見せかけたミュージックビデオの「ゴー・ウェスト」が高い評価を得ている。この曲は実は1970年代、まだ同性愛に寛容でなかったニューヨーク市を拠点として活躍していたゲイグループ、ヴィレッジ・ピープルが、ゲイのメッカであるサンフランシスコへの憧れを歌った曲で、ペット・ショップ・ボーイズがカヴァーしたことになる。他にもU2をはじめ、様々なミュージシャンの曲をカヴァーしている。2003年にベスト盤「PopArt」を発表、今年2009年にも「コンプリート・シングル・コレクション」を発表、オリジナルアルバムも「イエス」を発表、精力的に活動している。
 ヴォーカルのニール・テナントは自らゲイであることをカミングアウトしている。ライヴのパフォーマンスは、ゲイ的な表現も目立つ。1994年、ニールはイギリスのメジャー・ゲイ雑誌「Attitude」誌のインタヴューに応えて、ここで初めて、自分がゲイであると公式にコメントした。一方クリスは、これまでのところは、セクシャリティについての公式なコメントはないが、彼のパートナーであったといわれているピーター・アンドレアスが、この年にエイズで亡くなっており、翌1995年にリリースされた、ペット・ショップ・ボーイズのBサイド・コレクション・アルバム「Alternative」は、ピーター・アンドレアスに捧げられている。1997年7月には、ロンドンのゲイ・プライド・イヴェントにヘッドライナーで出演。また、10月には、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開かれた、Stonewall's Equality Show にもヘッドライナーで出演している。1999年にリリースしたアルバム「Nightlife」では、ゲイからの圧倒的な支持を集めているオーストラリアの歌姫、カイリー・ミノーグと共演。ゲイであることを告白する父親と、その娘との対話を描いたバラード、「In Denial」を、ニールとカイリーがデュエットしている。また、このアルバムからのヒット・シングル「New York City Boy」は、Studio 54に代表される、'70年代末~'80年代初頭にかけてのニューヨークのクラブ・カルチャー・シーンへのオマージュであると同時に、ヴィレッジ・ピープルのテイストを今日的に再構築した作品であった(全英14位)。2005年に発売されたアルバム「Very」からのシングルカットで、全英7位のヒット曲となった「Can You Forgive Her?」について、ニールはコメントで「一種のショート・ストーリーなんだ。ガールフレンドから男らしくないとバカにされた男が、夜も眠れないでいる。ベッド・インしている時でさえ、いくじなしだと言われる。そうして彼は学校に通っていたころの、最初の性体験を振り返って、自分がゲイだと自覚するんだけど、その事実と向き合うことができないんだ」と言っている。
 ちなみに、ロンドン3日ロイターが、英国最大の音楽賞であるブリット・アワーズは3日、イギリスのポップユニットのペット・ショップ・ボーイズに2009年の生涯功労賞を授与すると発表した。授賞式は来年2月に行われる。ペット・ショップ・ボーイズは、1981年に結成。1986年には、最初のヒット曲となった「ウエスト・エンド・ガールズ」が世界各国で1位を記録した。主催者側は、「すべての世代に向けた素晴らしい音楽を、20年以上にわたって作り続けてきた」などと受賞理由を説明している。昨年は、ポール・マッカートニーに贈られた。
 台頭してきたときから、同じ匂いを感じたが、カミングアウトにはそれなりに驚いた。イギリスの名誉ある賞にも驚き。まだまだ停滞は見られず、新作「イエス」もいい出来だったので、応援しよう。

2009年3月11日水曜日

フィラデルフィア


 フィラデルフィアで、2人の弁護士が公害訴訟で争っていた。原告側の弁護士ジョー・ミラーと被告側の、大手法律事務所所属の弁護士アンドリュー・ベケット、ミラー弁護士は敗北した。夜、ベケットは会社で上司から褒められ、次の大きな仕事を任される。数ヵ月後、ひどく痩せ衰えたベケット弁護士がミラーの事務所を訪ねてきた。握手をし、どうしたのかと尋ねるミラーに対してベケットは、エイズを理由に会社を解雇されたので裁判を起こして欲しいと頼んだ。しかし、自身がゲイ嫌いでエイズに対する偏見を持っていたミラーは、ベケットの依頼を断る。ベケットは悔しそうに、恨めしそうにミラーの法律事務所看板を見つめる。一度は依頼を断ったミラーだったが、大手法律事務所を相手に法廷で勝って、自身の実績を上げるために、あらためてベケットの依頼を受けることにする。裁判の論点はベケット解雇の理由に絞られた。ベケットの元の所属事務所は、重要な裁判の書類を失くしたことや力量の不足を主張したが、ベケットは、事務所の健康診断でHIVウィルス感染者だと分かった事が理由だと主張した。ベケットが同棲している恋人ミゲールや、ベケットの家族が見守る中裁判は進行していく。予断を許さぬ裁断の行方と並行して、ベケットの症状は次第に悪化していく。遂にベケットは裁判中に倒れ、病院に運ばれた。ミラーは原告側の勝訴の報を、ベッドの上のベケットに告げる。数日後、大勢の人々に見守られながらベケットは静かに息を引き取り、ミラーはかけがいのない友の死を実感した。
 エイズで解顧された弁護士とエイズに偏見を持つ弁護士の2人が、差別と偏見という敵に闘いを挑む社会派のヒューマン・ドラマ。監督は『羊たちの沈黙』のジョナサン・デミ。脚本はロン・ナイスワーナー、撮影も『羊たちの沈黙』のタク・フジモト。音楽も同作のハワード・ショア、挿入歌もブルース・スプリングスティーン、ニール・ヤング、マリア・カラスの曲が彩る。ブルース・スプリングティーンの「ストリーツ・オブ・フィラデルフィア」はアカデミー賞の主題歌賞も受賞。出演はベケット役でトム・ハンクスが第66回アカデミー最優秀主演男優賞を受賞した。ミラーにはデンゼル・ワシントン、ベケットの恋人にアントニオ・バンデラス、他にジェイソン・ロバーズ、メアリー・スティーンバージェン、ジョアン・ウッドワードらが脇を固める。
 テーマはもちろんエイズや同性愛者を含む差別問題にある。もちろん差別していいわけはない、それは最初から明白。しかし、本能的に避けてしまう部分が多くの人にあることは否めない。ことに、この映画では、エイズは差別すべきでないが、輸血や薬害でのエイズは差別すべきでない、同性愛者は自業自得だという伏線が存在している。ダークな部分を描ききったかが焦点になる。この映画では隠そうとするベケットと差別や偏見に対して心情が変化してゆくミラーに表現される。これは2人の名演により感動的な映画に仕上がっている。しかし、正直、もっと泥臭く追及してもよいのではないかというのが本音だ。法廷での駆け引きと日常の差別の演出のバランスにちょっと甘さを感じたように思う。それでも、この作品は当時暗黙のうちにタブーとされていた世界を真っ先に真っ向から取り組んだ画期的な映画だったと思う。そのくらい衝撃はあった。
 この映画では、背景にゲイが存在するだけで、セクシャルなシーンはまったくない。なので、それを期待して観ないで欲しい。
 この作品でのトム・ハンクスのオスカー受賞はダークホース、翌年の『フォレスト・ガンプ』での受賞は本命だった。つまり、翌年以降コメディも演じられる演技派男優として、当然のようにノミネートされる俳優になってゆくと誰もが思わず、彼に名誉を与えたのだ。彼はそれまでコメディを中心に演じてきて、大胆なダイエットで演技力を見せつけるかのような表現をした。明らかにこの映画が転機になったと言える。
 しかし、何より感動するのは、ベケットが自室で、マリア・カラスの「アンドレ・シェニエ」のアリアをCDで聞くシーン。絶望のどん底から希望の光を見つけていくかを模索してゆくかのようなシーン、自分の夢を熱くミラーに語る。このシーンが妙にゲイっぽく見えるのはボクだけだろうか。フィラデルフィアは絶望から希望へ、その心境の背景にふさわしい街。絶望も希望も受け止めてくれる街にボクの目には映った。

◎作品データ◎
『フィラデルフィア』
原題:Philadelphia
1993年アメリカ映画/上映時間:2時間5分
監督:ジョナサン・デミ
出演:トム・ハンクス, デンゼル・ワシントン, アントニオ・バンデラス, ジェイソン・ロバーツ, メアリー・スティンバーゲン