「性同一性障害」とは。
広辞苑によると「身体の器官の性と自己認識としての性とが一致せず、強い違和感や不快感が生活する上での困難になっている状態。」となっています。
もしかしたら、もっと医学書っぽく調べないといけないのかもしれませんが、これまでボクは「性自認と身体のつくりが一致していない人」と短絡的に位置づけていました。
ある方とお話をしていて、そんな短絡的なことでもない気がしててきました。
ボクは、去年の11月20日に「男性性・女性性」というブログを書きました。
そこで、ボクは男性性か女性性か片方しかない人はいないと言いました。
それは、「受容」する力がないと自分のことも他人のことも社会も理解することはできないし、「行動」する力がないと何も決められないし動けないからです。
完璧な「男」も「女」もいないと思っています。
人は何を以て、自分の性自認を決めるのでしょうか?
「男」って概念ってなに?
「女」って概念ってなに?
「セクシュアリティ勉強会」のなかでボクは、大きく分けて「セックス」「ジェンダー」「セクシュアリティ」の概念が「性」にはあると説明しています。
そこは概して異論がないところだと思います。
「セックス」「セクシュアリティ」はまだわかりやすいとしても、「ジェンダー」の概念による「性別」の判断はかなり人によってものさしが違うと思います。
なぜなら「ジェンダー」は、文化的・社会的役割で「性」を決める概念だからです。
人それぞれ、生まれや育ちやその環境は違うし、親や家族からの刷り込みがあるから、「男らしさ」「女らしさ」の感じ方はまちまちです。
「ジェンダー」の考え方は「男性性・女性性」に近いです。
もし、広辞苑の解釈が正しいとしたら、「性自認」だけでなく、そこに「強い違和感や不快感」が存在していて、さらにそこに「生活する上での困難な状態」が存在しないといけません。
単に「性自認」と「身体のつくり」が一致しないだけでなく、周りに迷惑をかけようが、その違和感を認めてもらえずに諦めかけていようが、それを「別の性」でしか生きていけないほど苦しい状態がなければ、「性同一性障害」とは呼べないのかもしれません。
ボクは、「同性愛者」なので、セクシュアルマイノリティの生きづらさはわかっているような気でいました。
そして、カミングアウトできない人を、堂々と出来ずに苦しんでいるように見えると感じています。
毎回、くどいほど言いますが、「カミングアウトできない人」をダメだと言っているのではないですよ。
「カミングアウト」が大変なことは痛いほどよくわかっています。
「カミングアウトできない人」の苦しみはとてもよく知っています。
そうして、「カミングアウトできない人」と「性自認のとおりに生きられない人」を質や大きさは違っても同じような苦しみだと思っていました。
「同性愛者」は「カミングアウト」しないと、本当に自分に正直に堂々と生きられないとは思っています。
でも、「性同一性障害」は自分の「性」を罪悪感なく受け止め、「身体のつくり」と違う「性自認」だときっちり受け止めて、「身体のつくり」と違う方の「性」として生きていくことを決めて初めて「障害」となるのだと思います。
ここの決心が「同性愛者」の「カミングアウト」に近い気がしてたんですね。
「身体のつくり」と違う「性」だと受け止め、その「性」で生きていく決心と覚悟をするということは、ものすごく大変なことだと想像ができます。
「同性愛者」は「性自認」に違和感があるわけではないし、「身体のつくり」と違う「性」に変えて生きないといけないわけではないから、単に自分の性対象を公表するかしないかだけの問題になってしまっているような気がします。
これを一緒くたにして語ること自体、無謀な気がしてきました。
いやいや、「身体のつくりと違う性で生きていく」決心や覚悟も、「同性愛者のカミングアウト」の決心や覚悟も、どちらもものすごく大変なことだと思います。
この辺の話をしながら、単に「女性性の強い男性」や「男性性の強い女性」の「違和感」と「性同一性障害」の「生活する上での困難な状態」とをごっちゃにして適当にわかった気がしていた自分を「マイノリティのパイオニア」とは呼べないな、と感じました。
というか、セクシュアルマイノリティのうち、どれほどの人が、自分の性自認を正しく突き詰めているんだろう。
「正しい」「間違い」や「正解」「不正解」はないといつも言っているボクですが、なんとなく「男」でいたいとか、直感で自分は「女」な気がするとか、簡単に言ってる一部のマジョリティや、「憧れ」みたいなものを「学生時代に同性を好きになったことがあった」とか、簡単に共感する一部のマジョリティに、不快感さえ感じます。
一部のマジョリティと限定している点ですでに偏りがありますね。
マイノリティ自身もそこまで突き詰めているのかわかりませんしね。
ボク自身も含めて、です。
そもそも、そんな深い部分の生きづらさに人は向き合えるんだろうか。
ボクは大丈夫ですよ。
「ある程度」ですが、マジョリティの多くの人がそうなっちゃうのも、マイノリティの多くの人がその認めてもらえない感じを強く感じてしまうのも、わかちゃっているから。
だからこそ、「普通」の人たちはこんな考え方をするボクを面倒くさいと思うんだろうし、ボクの活動はあたかもマイノリティの苦しみをマジョリティの人たちも味わってみろというように感じてしまうだろうし、マイノリティの苦しみなんていちいち感じてられない中でみんな必死に生きているんだろうし。
ただ、ボクは、少なくともその辺の自分や人への理解をある程度までは無意識までしっかり見つめ、カウセリングやコーチング、セミナー講師をしていきたいと思います。
「男は男らしく」「女は女らしく」なんてまったくくもうナンセンス極まりない。
みんなもっと「自分らしさ」を追求していきましょうよ。
少なくとも自分の「男性性・女性性」をしっかり見つめて受け止めて欲しいです。
切なる願いです。
長文、付き合っていただきありがとうございました。
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